鹿島の神と香取の神を弥生語で解いてみます その3

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弓前文書はどのようにして世に出るようになったか

さて、藤原氏九条今野家が秘蔵することになった「弓前文書」はその後どうなったかを述べておきたいと思います。

その前に何故、藤原氏が秘蔵することになったのかを一応述べておきます。

まず、藤原氏のルーツですが、既にご存知の方は大勢いらっしゃることとは思いますが、念のためにその概略を話します。

藤原氏は、元々、中臣氏の中臣鎌足(なかとみかまたり)を始祖とします。

鎌足は、御食子ー可多能古ー常盤とさかのぼりますが、元々は鹿島・香取に大体四世紀半ば以後に崇神天皇の大和入りまでは一緒に九州は五島列島からやってきた中津・弓前の一族です。

この一族は、九州時代から、「大君((後の天皇)のただしに答えるを家業」としていた大君側近の祭祀(神事)の一族でしたので、鹿島・香取に移ってからも、鎌足の祖父の可多能古などは、聖徳太子時代からしばしば奈良の都に呼び出されて朝廷の仕事をしていました。

地位も今の大臣クラスの祭官であった、と元京都大学の上田正昭先生も述べておられます。

そういう背景から、中臣鎌足も天智天皇に近づけたわけです。

そして、天智天皇の右腕として鎌足は中津身(中津一族の中でもその霊能の力で最も優れたものを中津身(なかつみ)と言いました)の資格によって「大化の改新」として知られる蘇我氏排除にも大きな力を発揮できたわけです。

その他の功労によって鎌足は、藤原姓を賜ったのです。

その藤原氏は、鎌足の後継者不比等(ふひと)のとき、四家に別れ、更に、近衛家(このえけ)、鷹司家(たかつかさけ)、九条家(くじょうけ)、一条家(いちじょうけ)、二条家(にじょうけ)の五摂家(ごせっけ)へと別れていきます。

ちなみに、五摂家とは摂政(せっしょう、幼帝や女帝の場合、全ての政務をとる)と関白(かんぱく、天皇を補佐する。太政大臣より上位)に成れる家柄です。

その九条家今野氏に弓前文書は保管されて後世に伝えられたのです。

しかし、強い新国家日本の理念書の記紀(古事記と日本書紀のこと)とは、いろいろ食い違うところがあったので、その弓前文書は封印されたのです。

そして次第に弥生語を解する人も段々いなくなっていきました。

そして、当の九条今野家はどうやら宮仕えに嫌気がさしたのか、結果、今の岡山にあった天領の一部を拝領(はいりょう、いただいて)して野に下った(いっぱんしょみんになった)のです。

その岡山の藩主の池田候と朝廷での位が従四位(じゅよんい)と同じところから池田姓を名乗ることを許されたそうです。

そのため、弓前文書は、京都所司代(きょうとしょしだい)の預かるところとなって封印され、明治の代となって江戸幕府崩壊に伴って、再び池田家に戻され帰ってきたのです。

そして、平成五年、弓前(ゆま)第六十七代にあたる池田秀穂(いけだしゅうほ)先生自ら、万葉仮名ばりの漢字だけからなる弥生語の「神文」を、困難きわまる壮絶な、盲目となるほどの苦労のなかで、たった一人で解読し、ようやくその時を得て世に出されたのです。

平成五年十月、「弓前六十七代池田秀穂口述、弥生の言葉と思想が伝承された家、上・下巻」が、ついに世に出ついにました。

その苦労たるや、想像を絶するものがあります。

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