高度な文明を持っていた日本の縄文時代

日本の縄文時代とはどんな時代か

縄文時代という言葉は 日本の歴史のはじまりを 告げる言葉として使われています。

しかし 実際には 200万年にも及ぶ幾度もの氷河期の時代がその前にあります。

やがて地球全体が少しずつ暖かくなっていった約13000年の少し前くらいに 我が国の縄文時代も始まりました。

 人々は山野で木の実を採ったり 野生の動物を捕まえたり 動物が食べ残した骨の中の骨髄(こつずい)を集めたり 川や海で漁(りょう)ができるところを求めては各地を転々として移動する そんな生活様式 だけを想像していたのですが 一方では温暖な気候の中で栗などの植林もでき 水田がなくても ある程度は定住ができたのではなのかという見方もあります。

丸木舟を作ってあたりの近海に漕ぎだしたり あるいは漁をする といったかなり落ち着いた生活をしていたようです。

この時代 人口は多い時で26万人程度でしたから 集落内の揉(も)め事は無論あったでしょうが 大規模な戦争のようなものはなかったと考えられています。

当時の日本の人口密度は非常に低かったからです。 

特に縄文の前期から中期にかけては食料は豊富で そのことは4000年前の福井県の三方湖遺跡(みかたこいせき)からでも十分にわかります。

当時も 海流は暖流の黒潮が分かれて対馬(つしま)海流となり 日本海の玄界灘や響灘(ひびきなだ)を通過して日本海を北上していく その同じ黒潮が太平洋岸に沿っても北上することで実に豊かな漁業の資源のなかで日本はほんとうに恵まれていたんだと思います。

その事が縄文人の定住化を ある程度は可能にしていました。
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縄文時代は少なくても6~7000ねんは遡(さかのぼ)れる

ところが近年今から約5000年以上も前から縄文の遺跡から例えば5000年くらい前に熊本県大矢遺跡から稲もみの跡が残る縄文土器の出土したりまた昭和53年にも福岡の板付遺跡からは水田の遺構や 石包丁 や炭化したジャポニカイネが発見されています。 

もっともこれらはいわゆる陸稲栽培のことですがそうは言ってもしかし水田栽培でも紀元前3200年と推定されています。

ということになりますと稲作は弥生時代にその稲作の技術が伝わったと言うこれまでの説は現在の社会の教科書の大幅な訂正を迫られることになります。 

それから稲作が日本に伝わったのは韓国からということを盛んに韓国の教科書では緊張しているようですがこれがまたどうやら間違って いたようです。

むしろ稲作は長江下流から九州へという考えですが もっともその途中に韓国の狗邪(くや)韓国と呼ばれた朝鮮南部を経由してはいます。

しかしその 韓国南部の狗邪(くや)韓国は 当時すでに日本の倭人の領土のようになっていましたので 韓国から来たと言うのは正しくありません。
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稲作のルーツ

結論としては日本の稲作の元であるジャポニカイネは中国の長江流域から日本へ渡来した可能性がかなり高まったと言われています。

青森の三内丸山遺跡からはクリやとちの木 くるみ エゴマ ひょうたん 豆類が栽培されていた痕跡が発見されています。

また同遺跡からは湿気に強い高床式(たかどこしき)倉庫跡が見つかっています。

三内丸山遺跡

それと大量に採れた栗も DNA の分析によると全て同一だったということ そして 同一であるということは大量の栗も人工的に栽培されていた証拠でもあるということです。

よって縄文時代とはより高度な栽培技術や湿気を避ける高床式倉庫などを持つ高度に文明化されていたと言えるわけです。

以上のようなことは明らかにこれまでの「野を駆けずり回って野獣などを追いかけ回す野蛮人」というレベルとはずいぶん違っています。

どうやら我が祖先たちは 世界的にみても遜色のない高度の文明をこの縄文の時代に既に築いていたと言えるのかもしれません。 

しかしながら 縄文も後期となると 世界的な気候の冷涼化の影響で西日本の方から徐々に物不足が人々を脅かすようになっていったのです。

第一に縄文の前期と後期ではその平均気温が4度も差もあったため それまで十分に取れていた木の実やそれを食料としている動物もどんどん減って さらには縄文後期には人口が約3倍も増えていったというのです。

そういうわけで平穏な共存共栄の関係が崩れはじめ 新しい食料資源が必要とされる時代となりました。

その救世主となったのが「稲作の栽培」です。

日本全土がわずかな間に あっという間に縄文から弥生へと急速に変貌できた背景に そこには このような事情があったのです 。

ところでその稲作の栽培ですが 実は縄文の前期にはすでに日本に入っていたという報告もあります。

ただし それは水田による栽培ではなく 陸稲(おかぼ)栽培による原始的な稲作です。

日本最古の水田の遺構(いこう)は 佐賀県の唐津市にある菜畑遺跡(なばたけいせき)が有名です。

そしてその時期は なんと縄文時代の晩期に当たるということがわかって 弥生時代の始まりの時期は 従来よりも少なくとも500年はさかのぼるのではないか と言われるようになっています。

それにしても そもそも縄文から弥生へと 生活を革命的に変化させた稲作が そもそも どこで始まり どのようにして日本にもたらされたのか ということをここで考えてみなくてはなりません。
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本格的稲作の始まりはいつ?

稲作がいつ頃始まったのか それは今でははっきりしています。

場所は5000年から7000年前の中国の雲南や長江の地方です。

それが紀元前3000年頃には揚子江に拡がり 中国の山東半島からその対岸の朝鮮半島へは紀元前1000年には普及していました。

 普通であれば 日本に入ってきた稲は 中国から朝鮮半島を経由してもたらされたものだ と考えますが 実はそうではなかったということが近年分かってきました。

稲の遺伝子の解析からそれが分かったのです。

朝鮮半島からではなく 中国の南部 揚子江の中流域から 東シナ海を経由して九州の博多か もしくは狗邪韓国(くやかんこく)の任那日本府(みなまにほんふ)に達するルートだった ということが今では明らかになっています。

ここは意外なところです。

だとすると わざわざ中国の人々がその稲作伝播(でんぱ)のために はるばると日本へとやってきたということなのでしょうか?

どうもそうではないようです。

続く。

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