古代神道での禍事(まがごと)とは何か?

禍事(まがごと)の意味

前回は古代の神道の世界では 罪とケガレとは一体どのような意味があるのか その内容とは何かについてお話ししました

禍事(まがごと)もまた 同じように明らかに弥生の言葉です。

この言葉もマ カ コ ト→マ ガ ゴ トの一音一音の意味(一音一義)が分からないと本当のところは分かりません。 

      マ        カ        コ    ト

     (ma)      (xa)     (kou)  (to)

    (まことの姿が)  (食う 食い込む)    (こと)

ですからマ カ コ ト→マ ガ ゴ トとは「真(まこと)の姿が食い込まれていること」という意味になります。

maga(まが) これを解読すると  ma(ま)とは物質を表すま行の「まことの姿」 そして ga(が)は「食う 食い込む」という現代語には無い「喰うこと」を意味するX(カ)行xa(カ)の複数形です。

なので 全体の意味は「真(まこと)の姿が食い込まれている」という意味になります。

死ぬことを「身罷(みまか)る」というのも この「真(まこと)の姿の肉体が食われてなくなっている」という意味が そこに込められています。

よって宣長が言うように やはり 罪と穢れと禍事(まがごと)は ほとんど同じような意味内容を持っている「凶事」と言ってよいでしょう。

厳密に言えば この三つは少しずつ違いますが 基本的には「同じ凶事」なのです。

そこで「祓い言葉」には「諸々の禍事(まがごと)・罪(つみ)・穢(けが)れあらむをば」という並列的表現になっているのではないかと思います。

そしてこの「諸々の禍事・罪・穢れあらむをば」という元の弥生語が「ウツジュケグマカ」なのです。
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「ウツジュケグマカ」という弥生語

弥生語の元の言葉の配列では「罪・穢れ・マガゴト」となっていますが 後世の「祓い言葉」ではその順序が入れ替わって「マガゴト」が一番先に来ています。

そこで この「ウツジュケグマカ」という弥生語をもう一度くわしく説明しましょう。

「積もり積もった」という意味の弥生語が「ウツ utu」です。

「罪」という意味の弥生語が「ジュ jiu」

「穢れ」という意味の弥生語が「ケグ kaigu」

「禍事」という意味の弥生語が「マガ maga」

よって「ウツジュケグマカ」とは「積もり積もった罪と穢れとがまことの姿を喰い殺す」という意味になるのです。

そして あなたの人生を狂わせ苦しめる元凶がこれだと言うのです。

そこで「プルクチミソユキ」という文言が続きます。
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「プルクチミソユキ」というキーワード

この祓言葉の原点は実は「天津祝詞の太祝詞」 という「秘められた 祓い言葉」があるのですが この「プルクチミソユキ」という文言こそがその天津祝詞の最も大事な中心となる要のキーワードとなる文言です。

「プルクチミソユキ」とは 平たくそのまま直訳して言えば「不思議な力によって禊(みそぎ)をし新たな命によみがえる」ということなのですが 実はこの文言は実に深い深い仏教で言う「解脱」また「キリストの復活の秘儀」のための言葉と言ったら少しだけ理解していただけるかとは思いますが ここの所は「秘中の秘」と言えるところで 一言で説明するのは大変難しいです。

でも一通りの解説をしておきます。 

ここで注目すべき言葉は まず何と言っても「ミソユキ」という弥生語です。

実はこの言葉こそは 後世の「禊(みそ)ぎ」の語源なのですが その奥義の事を言えば単なるいわゆる「水行の禊(みそぎ)」 のことではありません。

 「禊(みそ)ぎ」といえば 一般には「海や川や滝などの水で身体を注ぎ洗う水行のこと」としています。

そしてその簡略版が 神社に入る前の「手水舎(てみずや)で手と口を注ぎ洗う行為」である と一般の神社神道では説明していますが しかし実はこれはあくまで誰にでもわかるように顕教(表面上の教え)としての神道の教えなのです。

第一に海や川や滝や池などの水に身を沈めて 水でものを洗うように そんなことで本当に人の主に心のなかにある「 諸々の禍事・罪・穢れ」が消えるはずはありません。

気持ちがスッキリする程度の禊ぎです。

住む世界は以前と全く変わりません。

そこで この核心に迫る疑問に答えるために「それは祓戸大神(はらえどのおおかみ)がその人に代わって万事祓ってくれる」という「身代わり信仰」に賭(か)けている世界です。

この仕組みは キリスト教の「人類の罪のあがない」を「イエス・キリストヘの身代わり信仰」に賭けていることととてもよく似ています。

しかし そんなことで つまり「祓戸大神」にゆだねて本当に「心の奥深く積もり積もった諸々の禍事・罪・穢れ」が果たして消えるものでしょうか。

これに対し 「全く疑いなし」と答えることは 正直 なかなか難しいところです。

「それが信仰ですよ」 という答えが返ってくるのが予想されます。 

だからこそ  本当の禊(みそぎ)の密教(奥義)神道があるのです。

しかし 顕教神道のミソギで満足できる方は それはそれで良いかと思います。

なお 今申しました本当の禊(みそぎ)の密教(奥義)神道に興味がある方は拙著「伊勢・鹿島・香取・春日の起源(第一巻)ー天津祝詞の太祝詞の奥義ー」をお読みいただければ幸いです。

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