一霊と四魂という説の大きな誤りを正す

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そもそも一霊四魂(いちれいしこん)とはなにか?

今回は、特別に、一般に流布しています「一霊((いちれい))と四魂(しこん)という通説」が誤りであること、について少しお話しいしたくこんなタイトルにしました。

弥生語のカ行からの子音の解説は次回からにします。

さて、それでは、早速、ウィキぺディアの一霊四魂説の記述を借用しながら、この説の誤りを正していきたいと思います

一霊四魂とは人の霊魂にはまず天とつながる一霊すなわち直霊(なおひ)というものと四つの魂から成立つと言う考え方です

これは幕末の大石凝真素美(おおいしごりますみ)や本田親徳(ほんだちかあつ)などの幕末の特殊な霊魂観であるというとありますが、この説の誤りを正していきたいと思います。

誤っている一霊四魂の図

では正しい一霊四魂とは何か?

無論、これも一つの仮説として考えていただいて結構ですけども、 それは一霊と奇魂(くしたま)・幸魂(さちたま)・和魂(にぎたま)・荒魂(あらたま)の四つの魂ということではなくて、一霊すなわち四魂と言う意味であるということです

一霊=奇魂(くしたま)・幸魂(さちたま)・和魂(にぎたま)・荒魂(あらたま)の四魂ということです。

本田の言う一霊=直霊(なおひ) という捉え方がそもそもの間違いなのです。

しかし、これも一霊四魂のことや奇魂や直霊(なおび)のほんとうのことを記した弓前文書の神文(かみふみ)が、まだ世に出回っていなかった時代でありますので、間違うのも当然かとは思います。

しかし、今のこのブログでまだ母音の話が終わったばかりの弥生語の解読のこの段階では、これを弥生語の観点からうまく説明するのはなかなか難しいのですが、前回に荒魂(あらたま)のことを引用したこともあって、また、このブログ上でも、かつて、一霊四魂のことは「Iam that I amの神と人との関係の実相」という観点から述べたことがありますが、ここで改めて一霊四魂を取り上げようとしたわけです。

弥生語からなる「神文」は四章からなりますが、この一霊四魂の考えは、そのうちの第2章「移りゆく世界のかんながらの道」の中の第4節「ウムツヨナコトモノピクル(生まれ出てくる事物や生命には全て神の命がある)」 という所に書かれています。

すなわちこの一霊四魂の考え方というものは、このように元々は「万物に神宿る」というとても重要な神道説の記述のところに出てくる考えです。

ほんとうに「正しい一霊四魂」を伝える「神文(かみふみ)」

わかりやすいように私流に神文を解説します。

まず、クチピミ(kutiupiumi、不思議な意志の現れの段階)

これは後世の「奇魂(くしたま)」 のことです。

次にこれとペアをなす言葉が、 直霊(なおひ)という「宇宙の大霊の存在が宿る分霊神」なのです。

これが言うところの直霊であり宇宙神の分霊であり「万物に神宿る」と伝承されてきたことのコア(核)となる真理です。

ナオヒとは、弥生語で「napopiu(ナポピ)宇宙根源神の分霊」という意味です。

一体、わたしという人間は、なぜ、ここにいるのか?

わたしという人間とは、一体、何ものなのか?

その究極の問いに対する第一の答えがここにあります。

一霊すなわち四魂が正解

そういったことがついに明かされる時代となった、といってもよいでしょう。

あなたに宿っている生命の大元は宇宙の直霊でありそれを奇魂といい、それは思議を超えた魂であるということです。

神文での次のペアが、サチプミ(satiupumi、その大元の力が流れ出す意志の流れ)

これが後世の幸魂(サチタマ、satiutama)というものです.

それはタルモピ(tarumopiu、力を行使する深層潜在意識のこと)、これとペアになっています

次のペアがニキミミ(niukiumiumi、物質・肉体を形成するエネルギーの段階のこと)です

一般に、和魂(にぎたま)と言われてきたものです

そのペアになるのはミムツム ピ(miumutiumupiu)という物質形成の意志です

その人に起こる日常の現象を量子波として形成する潜在意識として活動する意志であり、この心のニギタマ が実際のあなたの現象界を創造している創造主なのです。

神や運命があなたの世界を創造しているのではないのです。

そのことを記しています。

これこそ、仏教の「あなたの世界はあなたの心が現している(三界は唯心の所現)」という真理のことをいっているのです。

そして最後に アラヨミ(aurayoumi、現実対応のアタマのいわばコンピューターの機能に当たる意志がこれです)。

これがいわゆる荒魂(auratamo、あらたま)と呼ばれてきた実体です。

つまりこれが頭脳のことです。

この 脳というのは 体外に対しよく働くのは良いとしても 、同時に、これまでの秩序を守ろうとする自己保存の傾向が強く、ある意味、始末に負えない厄介者でもあるのです。

この荒魂(あらたま)のペアとして神文に出てくるピクツムピ(pikutiumupiu)という生きんとする意志は、あくまで従来の価値観や秩序にこだわる自己保存欲の強い肉体我という厄介な代物(しろもの)です。

以上、「奇魂・幸魂・和魂・荒魂」とは 元々は「神文」から来ていますが、この大元の出典を知らない「幕末以来の一霊四魂説」が勝手に ひとり歩きしてきたというのが実際の姿であると思います

すなわちこれまでの一霊四魂雪は、幕末の平田篤胤(ひらたあつたね)の弟子の一人であった本田親徳(ほんだちかあつ)によって勝手に古神道として流布させた特殊な概念であり、しかし古典上の一切の根拠はなく、明治以後に広められた特殊な霊魂観で、神道事典などには一霊四魂という名称すらも掲載されていないのが 実情です。

本田親徳(ほんだちかあつ)

要するに「近世になって本田霊学系の後継者によって古神道と称する霊魂観として重要視され 、本田や大本教の出口王仁三郎(でぐちわにさぶろう)やその弟子たちらによって一霊四魂の構造とか機能とかが詳しく述べられていく」ようになるのです。

ましてや荒魂は荒々しいとか勇を表すとか、和魂は親を表すとか、幸魂が愛であるとか、奇魂が智をなす、などという魂の機能の説明などは、後世の こじつけ以外のなにものでもなく、以上の四つの魂の働きを直霊が独立して取り締まっているわけではないのです。

出口王仁三郎(でぐちわにさぶろう)

直霊はあくまで奇魂の別名であって同じものです、

ただし、直霊=奇魂が全体の大元であり、神そのものであることに間違いはありません。

以上が、「一霊すなわち四魂」の真相です。

「一霊+四魂」ではありません。

ですから、ほんとうに正しい古神道は、実は「神文(かみふみ)」が伝えている、ということがわかると思います。

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