身につけると身守りとなる神文(かみふみ)-神社ができた頃の古代史と古代語2ーかんながらの道(随神の道)

委細心得後半

では、委細心得の後半には何が書かれているのでしょうか。

そこには、まず値名(あてな)が神文を木版にしたためたこと、秘聞(ひぶん)も時の来るまで秘匿(ひとく、かくす)することを厳守し、代々の弓前和(ゆまに)が伝承すべきことが書かれています。

次に、南北朝の時代(1336年頃)に南朝にあって、神官の弓前和であった藤原内実(ふじわらうちみ)の記録と思われますが、春日社成立の次第が記されています。

それによると、はじめに鹿島の最後の中津身(なかつみ)、時の右大臣、藤原不比等(ふびと)が、708年に鹿島のピカの御霊を都の春日山の上に祀ったこと(現在、本宮神社と称し春日の奥の宮と言われています)が記されています。

下って、不比等が春日山にはじめて鹿島の神を祀ってから六〇年後の768年の時、称徳帝(しょうとくてい)の時代、神護景雲(じんごけいうん)二

藤原不比等

年に、香取のプツの御霊を勧請(かんじょう、神仏の分霊を祀ること)して、鹿島のピカの御霊と共に春日山の麓(ふもと)に鎮めて春日社としたことが記(しる)されている。

この768年の方が現在の春日大社の始まりなのですが、その60年前に、実は不比等によって鹿島の神は、すでに春日山の上に祀っていたのです。

この不可解な春日大社成立には、深いわけがあったのですが長くなりますので、いつか機会を設けて明らかにします。

同時に、このお社が、元来は、鹿島の中津身の後身である国の表に立つことになった藤原氏の大臣(おとど)のためのお社であったことをも記しています。

身につけると身守りとなる神文

内実(うちみ)はまた、板文が摩耗(まもう、すりきれる)したので新に紙面に書き移したこと、神文の音声が正しく伝わるように「漢字の音訓書」を付け加えています。

さらに、この秘文書を伝承するものへの戒めや心得を記しています。

例えば、長旅をするときは、神文(かみふみ)に社の常磐(ときわ)の葉と麻緒(あさを、神事で使う麻)を添えて懐中すればかならず身を守るお守りになることなどです。

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弓前文書が現代に伝承されたいきさつ

次に、この弓前文書がどのような経路をたどって最後の弓前六十七代の池田秀穂先生にまで受け継がれていったかを概観しておきましょう。

初代弓前(正式には弓前和<ゆまに>であるが省略します)である飛鳥時代(600年頃)の弓前値名から数えて十代下った弓前の時代は、760年代の称徳天皇の御世ですが、この十代弓前に「藤原今和(いまに)」の称号が与えられ、「弓前文書」をもって印綬(身分や位階をあらわす官印)としていました。

その多くは、朝廷の学問所の大学頭に就任しました。

今でいえば、東大の学長と言ったところでしょうか。

あるいは、それより権威があったかもしれません。

この時より四十年前には日本書紀、その八年前には古事記が撰上されています。

そこん所が面白いと思います。

記紀と弓前文書の記す歴史とはその内容があきらかに食い違っています。

それが問題にならなかったのは、おそらく情報交換の事情が今とはまったく違っていたからでしょう。

両方を比べる機会は、弓前の方にはあったかもしれませんが、あったとしてもそれは秘密中の秘密ですからこれを持ち出して事を荒立てるなどということはなかったようです。

記紀を知っている人もまた当時は少なく、これをよく知る人であっても弓前文書を見る機会はなかったはずです。

歴史は下り、1300年代の南北朝時代。

藤原今和は後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の南朝側にいました。

その時の弓前が藤原内実(ふじわらうちみ)という人でした。

北にいた藤原氏は同族でしたがこれを憎み、両朝が合併された時、面倒を避けて今和という称号は廃止されます。

さて、それからは、藤原氏の五摂家の一つ、九条家、この家は公家(くげ、朝廷に仕える上級官人)の有職故実の専門職ですが、この九条家の内々で弓前文書は学習され伝承されていくことになります。

しかし、1460年の応仁の乱の世となり、その学習はままならず、あとはただ、いかに弓前文書を保存するか、というその一点に絞られました。

その内容について勉強する余裕はもはやなかったのです。

江戸の徳川の世となって、三代将軍家光の時に、九条家の中でも今野家が弓前の印綬を伝授し保全することになりました。

1717年、将軍吉宗の治世、故あって今の岡山県の但馬(たじま)に天領(江戸幕府の直轄領)の一部を与えられ姓を改めて下野したのが池田先生の先祖です。

どうやら宮仕えに嫌気がさしたようです

池田姓にしたのは、そこの領主池田公と朝廷では同じ従四位であったので、許可を得て池田姓を名乗らせてもらったとのことでした。

そして、弓前文書一式は京都所司代(きょうとしょしだい、京都の警備や公家の監視の役所)の預かるところとなり、徳川幕府が崩壊する明治の代となり、その一式は再び池田家に返されることになったのです。

そんな経緯をたどっています。

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