鹿島神宮の神と香取神宮の神を弥生語で解いてみます その2

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日本建国のはじまり

さて、三輪一族が天族を利用して自分たちの暴利をどんどん貪(むさぼ)っていることを知り、大君は天の意志を聞くように例によって中津一族に命ずると、天の声は「上陸しこれを降伏せしめ、そして新しい日の本の国を作るべし、広大無辺の仁(じん、いつくしみ、後の天皇の御徳を意味します)とともにある日の本国は天地(あめうち)と共に極まりなく永遠に続くであろう」という命が下ります。

これが有名な「天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのかみのみことのり)」というものです。

アオピルメムチチ(天照大御神)の命と「委細心得(いさいこころえ、天族に伝承された古代史)」には記されています。

こうして、倭人天族はこれまでの海洋民としての一大商業貿易から、大和をめざして国をひらく為に東遷(とうせん、東をめざすこと)を始めたのです。

時は、紀元後の約360年ごろのハツクニスメラミコトと言われた崇神天皇の大和王権の誕生です。

大和(今の奈良地方)は本拠地である九州からはずいぶんと離れていましたから、当時の事情からは、当然のことながら、九州と大和の二王朝並立(へいりつ、同時に存在すること)の体制を取っていたのです。

その後の天智天皇の七世紀の時に、日本は朝鮮半島の白村江(はくすきえ、今の錦江河口付近)で唐と新羅(しらぎ)の連合軍にかつてない大敗北をしたことから、律令体制(厳しい法に基づく国家体制)による国の強化を図り、次の天武天皇、持統天皇の時に藤原不比等などが中心になって古事記、日本書紀を編纂(資料を集め加筆編集すること)とりかかりました。

そのとき、編纂者たちは、日本の建国の時をどうやら釈迦や孔子の時代よりすこし遡(さかのぼ)らせて権威付けるために、崇神天皇の360年ごろに変って紀元前660年の神武天皇の東征を設定して、あわせて二王朝並立をないことにしたようです。

そいうわけで、「ハツクニスメラミコト(はじめて国を開いた天皇)」が崇神と神武の二人いる、というあり得ない記述になっているわけです。

日本書紀は、このおかしな矛盾をそのまま放置して後世に伝えたということです。

崇神天皇に、「ハツクニシラススメラミコト」という本来の姿を抹殺しなかったことは、しかし、日本書紀編纂者のせめてもの良心の現れだったのかもしれません。

さらにその良心の現れは「後勘校者、知之也(後にかんがえむ者が、これを知らむ、<後世、調べて考える者がこれを明らかにするだろう>)」という編纂者の言い訳にも表れていると思います。

ですから、一般の神社神道では、いまから約2600年代前ころの神武天皇をハツクニスメラミコトとする東遷を伝えていますが、崇神の四世紀の東遷の話は弓前文書の委細心得にのっている歴史です。

以上のような次第で食い違うのは致し方ありません。

ただし、九州にいたあるグループの強力な集団が三輪地方の大和制圧の為にやってきたことだけは、古事記も日本書紀も認めていることに変わりはありません。

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弓前文書(ゆまもんじょ)はなぜ秘密にし隠されたか

倭人天族の大君に仕えていた中津・弓前(なかつ・ゆま)という一族がいたことはすでに述べたところですが、彼らは「大君の質し(ただし、質問してたしかめること)に答えるのが家業であった」のです。

そして彼らが残した天児屋根命からのメッセージである弥生語から成る口伝えの「神文」を七世紀のはじめごろに、香取神宮の神職であった弓前値名(ゆまあてな)が、万葉仮名(漢字の音訓をかりて国語の音を記す)のようなもので漢字化したことはすでに述べましたが、実は、古事記も日本書紀も弓前文書の神文に、ことに神々については全面的に依存していたのです。

「神文」が無かったら、古事記も日本書紀も神々の名に関しては、創作された物語は別として、存在しえません。

ことに、古事記神代巻冒頭十七柱の神々は、「神文」第一章の「アマツムカムロミチパツノ」のほとんど丸写しといってよいものです。

しかしながら、すでに申し上げましたように、新しい強力な国造りという政治的理由によって、大幅な歴史内容の変更をしなければならなかったので、その結果、神文をふくむ弓前文書は秘密にし隠すため一族の藤原氏九条今野家が秘蔵することになったのです。

今だから言える秘密です。

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