鹿島の神と香取の神を弥生語で解いてみます その4

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弥生語という古代語の特徴

次に、弥生語の特徴を話します。

まず、
1、 弥生語は一音一義(いちおんいちぎ)であるということ。

一つの音に一つの意味があるのです。

現代語はひとかたまりのフレーズでしか意味を持っていませんね。

一音一義とは、一つの言葉に、一音一音にそれぞれ意味がある、ということです。

一音一音が、一つの意志を持っているかのごとく、一つの意味を、従って一つの波動(エネルギー)を持っています。

つまり、「言葉には力がある」ということです。

これを、昔の人は、ことたま(言霊)と言ったのです。

「ことたま(言霊)」も「こと」、すなわち、「固まった単位である言葉」には、たま、すなわち、「た」は「大きなエネルギー」、「ま」は「どんどん増えていく」意味で、昔は言葉は力を持った言霊(今はことだま、と濁点がつきます)であったのです。

いや、今でもその事情は同じで、そのエネルギーは知らなくても潜んでいるわけですから、悪い言葉はなるべく使わないで良い言葉をつかいましょう、ということになるわけです。

言葉にはモノを創造する力があるからです。

聖書のヨハネ伝第一章に「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。・・・できたもので一つとしてこれ(言葉)によらないものはなかった。」とありますが、実は、この場合の言葉は人の「意識」と言ってもよく、「はじめに意識があった。意識は神と共にあった。できたもので一つとして意識によらないものは無かった」と言っても同じことなのです。

「言葉は神と共にある」、言い換えれば「意識は神と共にある」ということなのですが、言葉ないし意識の中には「神の創造する力が潜んでいる」からです。

神は人に心の中に、言葉の中に、意識の中に「モノを創造するエネルギーをギフト(贈り物)として」こっそりと与えてくれているのです。

運のいい人はこれを何故か知っていてこれを活用している人です。

運の悪い人とはこれを知らないで、自らの言葉、意識、心によって自らが造った目の前の「現実」というものに振り回されている人と言えます。

ということは、誰でも何時でも、自らの運命を変えることが出来る、ということです。

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一音にはそれぞれ一つの意味があるということ

弥生語の話に戻ります。

一音にはそれぞれ、一義、すなわち一つの意味があるということを申しました。

例えば、空(そら)は、「そ」にも「ら」にも、それぞれ意味を持っている、ということです。弥生語では、「そ」という一音には「何もない」という意味があるのです。

現代語では、そんなことはないですよね。

そら、といってはじめて意味を持ちます。

弥生語の「ら」は、「最大の動作をあらわす」意味での「躍動」の意味を表すのです。

それで空は、弥生語では「何もないところに躍動するものがある所」という意味になるのです。

どういうことかといいますと、昼は、何もないところに太陽というという躍動するものがあります。

夜は、何もないところに月や満点の星が躍動して輝いています。

だから「そら、sora」と言うのです。

さわやかな、という言葉があります。

現代語では、さわやかなというワンフレーズでもって、「爽快(そうかい)」という意味を持ちます。

弥生語では, さ     わ        や       か     な

(何もない状態)(横への広がり)(縦への広がり) (最大の変化) (成る)

という意味を持っています。

すなわち、全体ではこの場合、「何もない状態が縦にも横にも最大に成っている」という意味を弥生語では表しています。

だから、結果的に「爽快」という意味になるのです。

この言葉は、同じような意味を持つ「すかすか」という言葉によっても、「すがすがし」によってもよくわかります。

弥生語の同じ言葉の原理によっていることがわかるのです。

す    か  す   か

(何もない状態)(最大)()()

す        が       す     が      し

(何もない状態)   (最大)     ()   ()      ()

「すかすか」、は「からっぽ」の状態であるし、「すがすがしい」は もとは「すかすかし」で「なにもなくて澄み渡っていてさわやかな状態」の意味を持っているところを見ても、弥生語の言葉の原理が少しだけお分かりいただけたか、と思います。

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