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既に,「天児屋根の伝言と成功哲学」として発表しています日本の古代の歴史と古代の言葉についてのホームページを、前とは打って変わって、できるだけわかりやすい言葉や表現で発信いたしたく、ここに「弓前文書(ゆまもんじょ)は天児屋根(あめのこやね)の伝言です」というタイトルのブログを始めることにしました。
出来るだけ大勢の方々に、「弓前文書(ゆまもんじょ)」という天児屋根命(あめのこやねのみこと)の言い伝えによる、より正しくより真実の宇宙と日本の古代の歴史と特に神社神道にとって主要な日本語のルーツである、ここで「弥生語」と言っている言葉を知っていただきたいと思っているからです。
それは、大昔から「かんながらの道」と言われている神社神道のほんとうの始まりの道とそこで使われている言葉を指しています。
具体的には、歴史上、九州西北周辺の島々に国々を持っていた倭人天族(わじんあまぞく)の人々が信仰していた「かんながらの道(大自然変化の流れゆくの道筋)」と彼らが使っていた言葉です。
その始まりは、推定では、少なくとも紀元前三世紀の頃までさかのぼります。
その時代は少しずつ稲作社会ができあがって、いわゆる弥生の社会がどんどん広まっていった頃です。
そのかんながらの道を後の世に「中臣氏(なかとみし)」となる自分の子孫にその先祖である天児屋根命が伝えさずけた時が、紀元前三世紀頃だったという意味です。
もっとも、中臣氏という氏族は、そのころは中津・弓前(なかつ・ゆま)一族と呼ばれ二つのグループに分かれていました。
中津一族は、もっぱら、天の声を聞く役割で、鹿や亀の甲羅(こうら)で占いをする霊能力に優れた人々のグループで、その中の長を「中津身(なかつみ)」といいました。
当時はまだ宮司(ぐうじ)とか祢宜(ねぎ)という言い方はありません。
お祭りをして、天の声を聴き、彼ら倭人天族の大君(おおきみ、後の天皇と呼ばれる)に神意を伝える神職の一族でした。
一方の弓前一族はというと、そのかんながらの道やその理論といいますか、その考えの根拠をきわめる役割をになっていたのです。その長を「弓前和(ゆまに)」といいました。
亀卜(きぼく、亀占い)
やがて、これら二つのグループはそれぞれ、天の命を受け九州から大和、伊勢を経て東の最先端の鹿島・香取までやって来て、それぞれの社(やしろ)を創建しそこに仕える神職となるのです。
だからこそ、鹿島には中津の鹿や亀による占いが盛んで、理論派の香取に「弓前文書」という言い伝えを文字化した弓前値名(ゆまあてな)などの学者が現れたわけです。
この役割は九州時代からの伝統としてしっかり守られていました。
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ハツクニスメラミコト、崇神(すじん)天皇による日本建国の始まり
鹿島・香取の創建は、紀元後約四世紀半ば少し後の頃のことだと推定しています。
というのも、ハツクニスメラミコト(はじめて国を開いた大君、の意味)にしてミマキイリヒコイ二エ(奈良の三輪に入った親しみのあるお方、の意)の崇神(すじん)天皇が奈良の三輪にはじめて国を開いたのが、約四世紀半ばの頃だから、と推定できるからです。
とまあ、こんな内容の話です。
古代日本の歴史と古代日本語の一つである、神社関係では特別に重要な弥生語、そして天児屋根命(あめのこやねのみこと)という人とも神ともいえる、後の中臣氏の祖霊(先祖の神様)からの驚くべき伝言(言い伝え)の話をします。
その伝言を神文(かみふみ)といいます。
神文は四つの章から構成されています。
その四つとは、
第一章がこの大宇宙のサムシング・グレイトが意図した「大自然変化の流れゆく道筋<これをかんながらの道、という>の始まり」の話です。
第二章は、その大宇宙が意図した「大自然変化の流れゆく道筋の移り行く姿」の話です。
第三章は、大宇宙が意図した「大自然変化の流れゆく道の法則」の話です。
最後の第四章は、大宇宙のサムシング・グレイトが意図した「大自然変化の流れゆく道筋の始まり、移り行き、法則に対しての、より良い生き方はどうしたらいいのか、の順応の仕方」を述べたものです。
次回から、この「神文」と伊勢・出雲・鹿島・香取・春日のそれぞれの神社がいかに創建されたかをその当時の古代の歴史と共に記した「委細心得(いさいこころえ)」、これを合わせて「弓前文書(ゆまもんじょ)」と称していますが、その話をしていきます。
それと、面白い弥生語の話をまじえて、例えば、なぜ「母」のことを「はは」と言ったり、「かか」と言ったりするのか、といった話をしていきます。
ご期待いただければ嬉しいです。