オモダルの神・イモアヤカシコネ とは本当は何なのか?
いよいよ古事記冒頭17柱の神々も最終段階に入ってきました。
古事記 神文
オモダルの神 ポモダルホ
「生産・豊穣の男根の神」 「個々の細胞の統一体の多細胞のこと」
イモアヤカシコネ アヤクチコネ
「生産・豊穣の女陰の神」 「不思議な生命い転換する根っこの遺伝子」
古事記の方はオモダルの神と妹アヤカシコネの神となってそれぞれ男根の神と女陰の神となっています。
要するに生殖の男女の神という点ではイザナキ・イザナミの神に似ています。
古事記はは単純に生殖器をそのまま神としています。
一方神文の方はここでも世界が古事記とは全く違います。
すぐには信じられないかもしれませんが、神文では、アヤクチコネは遺伝子で、ポモダルホは多細胞生物のことなのです。
しかもこのブログでは古事記に合わせてポモダルホの次にアヤクチコネとして分かりやすく古事記に合わせて書き出してありますけれども、神文の本文ではアヤクチコネの次にポモだルホという順序が正しく、実は古事記とは逆なんです。
それは当然のことで、神文の言うアヤクチコネというのは一言で言うと遺伝子のことだからです。
その説明はここでは割愛しますが、その結果として個々の細胞が集まったのことを言ったポモダルホという多細胞生物が出てくるのが生物学上の順序だからです。
神文ではここで単に男根と言う生殖の神としていますが、本文の神文の方では、実は多細胞生物の出現のことを言っているのです。
生物発生学的に言えば、生物学では、多細胞生物の出現の前には単細胞生物の出現というものはどうしても必要なわけです。
それを神文はちゃんと押さえているのです。
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淡嶋・蛭子<ひるこ>とは、要するに、何なのか?
つまり、アヤカシコネ・ポモダルホ(記紀<古事記・日本書紀>では、阿夜可志古根・面足)という多細胞生物が出現するためには、その前にアポチマ・ピルホ(記紀<古事記・日本書紀>では、淡嶋・蛭子<ひるこ>)という単細胞生物がどうしてもなくてはならないわけです。
そこをちゃんと押さえています。
一方、古事記の原本である弓前文書をそれまでの口伝えから文字化に取り組んだ610年ごろの弓前値名(あてな)や、古事記編纂(へんさん、編集)に深くかかわっていた712年頃の藤原不比等(ふひと)は、この淡嶋・蛭子<ひるこ>の実態をなんとなくわかっていたようです。
どうしてそう言えるかというと、古事記では、この淡嶋・蛭子<ひるこ>はイザナキ・イザナミという夫婦の神から生まれた「出来損ないの子」として「子の類(たぐい)には入れず」川に流してしまうという神話を創作しているからです。
単細胞生物としての淡嶋・蛭子<ひるこ>は、たしかに生物としては未完成のレベルの存在です。
藤原不比等
古事記 神文
淡嶋 アポチマ
「出来損ないの子」 「生物と無生物の間のウイルス」
蛭子(ひるこ) ピルホ
「出来損ないの子」 「単細胞生物」