ーハレとケとケガレーを古代日本語 で解く           

では早速、このハレとケ、そしてこれに関連したケガレ とは元来、どのような意味内容を持っているのかを古代日本語である弥生語から解き明かしたいと思いますが、まずは、これまでの学者の方々の考えを見てみたいと思います。

従来のハレとケとケガレの考え

有名な柳田邦男という学者は主にハレを中心として民俗生活を捉え、ケは単にハレに対立するもの、ハレ以外 の日常生活と位置付けて、ハレとケという二つの生活リズムによって民俗生活のリズムを強調したことでよく知られています。

その 後、この二つに加えて、新たに「ケガレ」という三つ目の概念が、昭和45年以降に唱えられるようになったと言われています。

柳田邦男

文化人類学者の波平恵美子という方も、古くから語られてきた「穢れ」(けがれ)という不浄を意味する言葉を「ケガレ」 とカタカナで表記し、民俗学の分析概念として用いる考え方を提示されました。

ハレは清浄性と神聖性、ケは 日常性と世俗性、そしてケガレは不浄性をそれぞれを示す概念として、日本の民間信仰のバリエーション は、おおむねこのハレ・ケ・ケガレの相互の関係の差異によって生じるものである、とし ています。

それに対し、柳田門下の民俗学者・桜井徳太郎という人は、ハレとケの媒介項としてケガレを設定し、ケガ レは稲の霊力であるケが枯れた状態、つまり「ケ枯れ=ケガレ」であり、そのケガレを回復するのがハ レの神祭りであると唱えました。

なるほど、面白いひとつの意見だと思います。

ただし筆者の意見はかなり違っていてその事については後ほどお話します。 

また、波平氏が「ハレ⇔ケ⇔ケガレ⇔ハレ」と相互間が対立概念である と主張したのに対し、桜井氏は「ハレ⇒ケ⇒ケガレ⇒ハレ」という循環論を唱える、という違いがそこには見られます。

ちなみに、神道でいう死の「穢れ」とは、死に至る病気や事故、その苦しみや、遺された人達が悲し み嘆く状態の事を、やはりここでも気が枯れた状態=気枯れ=ケガレと解釈して、 穢(けが)れとは「気が枯れる」という点ではどうやらほとんどの学者が一致しているようです。 

しかし、何度もこれまで申し上げましたように、大体、AD一世紀頃からコメと鉄を始めて日本にもたらし、古代日本をリードした倭人海人族にそのルーツを持つ大和民族の人々が使っていた「一音一義の古代日本語」においては、すなわち「言葉の一つ一つに全て意味がある弥生語」からしますと、それらは明らかな間違いである、という話をこれから順次、説明してまいりたいと思います。
たとえば気が枯れた状態=気枯れ=ケガレというほとんどのこれまでの学者の解釈いかに間違った考えてあるか、を明らかにしていきます。

そこから弥生語でしか解けない神道に関する古代日本語 として、はじめに、よく知られている「ハレとケ」という言葉の本当の意味を解き明かしていきたいと思います。

まずは、現在の多くの人にとってわかりやすい「ハレ」の方から見ていきます。

これまで一般的に考えられている「ハレ」の概念と言えば、おおよそ、次に引用するような解説がほとんどと言って良いと思います。

ネットで検索しても、また神社の神職さんが説明するハレの概念もおおむね次のようなものと言えるでしょう。

次の文章は引用文です。 

「ハレというのは語源は「晴れ」とされ、めでたい折り目や節目を表しています。

現代でも、晴れ着、晴れの日、晴れ舞台などという言葉として使われています。

結婚式や初宮参り、七五三などの子どもの成長を祝う儀式など、人生の節目で着用する衣服のことを晴れ着といいますし、一生一度の晴れ舞台、とか、いよいよ明日は晴れの日だね、などという使い方をします。」

一方の「ケ」 ついてはと言いますと、次のように書かれています。

「「ケ」は普段通りの生活を送る日のこととされていますが、また、陰鬱な気持ちや何かよくない力、病気や死など、「ケ」の生活が順調にいかなくなることを、「気枯れ」=「ケガレ」といって忌み嫌い、禊ぎ、清め、祓いなどをしました。「ケガレ」を落とし、単調になりがちな生活に「ケジメ」をつけて、「ハレ」の日を迎える。そうした物事の繰り返しで暮らしが成り立っています。」

といった説明で、ここでも「ケガレ」は「気のエネルギーが枯れた状態」というほとんどの学者の見解の受け売りをしています。
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「一音一義の古代日本語」の弥生語から見たハレ・ケガレ・ケ

では早速、「一音一義の古代日本語」ここでは弥生語と言っている言葉からから解読した「ハレ・ケ・ケガレ」を説明して行きます。

その前に、改めて一音一義の弥生語の大原則をまずはじめに申し上げておきます。

そうしないと、何故そう言えるのか、の根拠がよく分からないと思われるからです。

一音一義の古代日本語の原則

1、母音はア、オ、ウ、イの四つが基本です。そして母音は子音の意味の強さを表します。

二重母音も四つで、au (ア、出合う) ai(エ、変換)ou(オ、敬う)iu(親しい)の意

味を持っています。

2、次にカサタナパマヤラワのそれぞれの各行の子音は全て一音一音が意味があり、そこに付いている母音はそれぞれア、オ、ウ、イの順番でその強さを表しています。
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一音一義の 古代弥生語一覧

   K 変化 S 無い T 物量  N秩序 P霊 M可視 Y垂直 R動  W水平 X食

a

o

i

この子音と母音が、それぞれカ行からワ行まで合計9×4=36文字が古代弥生語の基本中の基本です。

子音としては、その他に現在の日本語にはない「食べること」を表すX(k音にもH音にも聞こえる)音と「狭小」の意味を持つTs(ツァ) 音があります。

ここではTs は一覧表には書き込めないので割愛させていただきました。

おおざっぱに言いますと、カ行は「変化の世界」を表し、サ行 は「何もないという世界」を表し、タ行は「物量の世界」、ナ行は「秩序の世界」、パ(ハ)はどちらかといえば「見えないエネルギーの世界」を表し、マ行は「 物の 形の世界」、ヤ行は「縦の垂直の関係」、ラ行は 「動作の世界」、ワ行は「水平の横の関係」をそれぞれ表しています。

X行は、「 食べ物」の世界を表し、奈良時代の頃にはh音とk音とに分かれて行きます。
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「ハレ=聖=神の世界」と「ケ=俗=濁世(じょくせ、汚れた世界)」の関係、そしてケガレのほんとうの意味とは?

まず ハレとケについては結論から申し上げれば、上のタイトルの通りです。 

このハレとケの捉え方としては、社会学者デュルケム聖俗二元論から、この両者を「ハレ=聖」と「ケ=俗」の関係で論じられることがあるようですが 私も全く同じように「ハレ=聖=神の世界」と「ケ=俗=濁世(じょくせ、汚れた世界)」の関係だと考えます。

それを一音一義の弥生語から解読してこれを明らかにします。

まずハレですが、その昔はパル、その名詞形がパレ、すなわちハレという言葉です。

古代P音がH音に奈良時代の後半頃から変化したことは、東大の上田萬年(うえだかずとし)が主張いたように、今では国語学会では常識となっています。

だから、ニッポンという言い方と二ホンという言い方があるのです。

古代P音は、基本的には目に見えないエネルギーの世界のことでありますから、この世界は神道では神の世界になります。

神社神道の世界においては、マツル(祀る、祭る)ということが基本中の基本であります。

これに異論のある方はおそらく一人もいないと思います。

祀(まつ)るとは、人が目に見えない神のエネルギーをその社(やしろ)に招(お)ぎ祭る神事の為にいろんなことをするということです。

マツルの語源は古代弥生語の「マパツル」から来ています。

マパツル(マツル) とは

    マ (ma)           パ (pa)                    ツ(tu)   ル(ru)

 (目に見える真<まこと>の姿の)(目に見えないエネルギーを)(積み重ね)    (る)

という行為なのです。

マパツル➡マハツル➡マツルと変化したのです。

なぜ P 音+M音 とと成るのかと言いますと、この世界は、元々、目に見えないエネルギーのP音の世界と目に見えるM音の世界から成り立っているからです 。

祓へと祀り

弥生語では、「この世界がまわる」ということを「tamamaparu(タカマパル、高天原の語源)」と言います。

世界が動くのは、マの世界とパの世界から成り立っているから、マパル➡マワルと言うのです。

よって、パレのP音は「ハレ=聖=神の世界」であり、祀りと密接な関係のある祓(はら)へも、 本来の日本語である弥生語では、 

       pa ra pai(パラぺ➡はらへ) のP音の世界なのです。 

一方、ケとケガレの世界ですが、この解明にはそれこそ純粋古代 語である弥生語の出番であり、ケとは「変化の世界」を表すカ行の子音と二重母音の「変換・転換」の意味を持つai(ェ)の結合した「Kai(ケ)であり、「変化の更なる変換」ですから、「普通ではないこと、関西で言う、けったいな、異様な」という意味になります。

「もののけ」という時の「ケ」、と言ったら分かり良いでしょう。

ハレの神の世界から見れば、この世の世界というのは汚れており、そういう意味ではこの世は、異様でけったいなケの世界、だからです。

これも一般にも言いますが、祝詞などにひんぱんに出てくる「マガゴト(禍事)」という言葉を考えてみます。

一般に良くないこと、事故とか事件など災難のことを言いますが、何故そんなことを「マガゴト」と弥生弥生語では言うのか、と言いますと

 マガゴトは、弥生語では、 

       マ    カ    コ      ト

      ma          xa     kou              tou           だからです。

禍事(まがごと)を祓う、と言いますが、 コトは現在と同じ「事柄のこと」ですので、そのままでよくわかります。

問題はマカ(maxa)です。

これがなぜ「災難」の意味になるのかということですが、ma(マ) とは「ものの真(まこと)の姿」という意味です。

それがxa(カ、狩)で、「食われ壊される」ということです。

病気も事故も火事も地震も「壊され損傷を受ける」、だから「マガゴト(禍事)」 というのです。

朽ちる、崩(く)え損(そこ)なう、も、皆この「食い込む」意味のxu(ク、喰)の世界です 。

それと、xu(食い込む)の複数形は、gu(グ、強く深く食い込む)となります

「グイグイ心に入ってくる」「グッと心にくる」という時のグ(gu)はやはり「心に食い込んでくる様子が強い」という意味になります。

そして、なんと、ここにおいて「ケガレ」のほんとうの意味が解読できるのです。

ここの「ケ」とは、変化の世界」を表すカ行の子音と二重母音の「変換・転換」の意味を持つai(ェ)の結合した「Kai(ケ)であり、異様な」という意味で、決して「気」のことではありません。

さらに次の「ガレ」は「枯れる」意味ではなく、「ガ、ga」は、「食い込む意味のXa(カ)の複数形」なのです。

「ケガレ」は、「諸々(もろもろ)の禍事(まがごと)・罪・穢(けが)れあらむをば」という表現いあるように、「ケガレ」は常に「罪、弥生語で(じゅみ)」と連動している言葉なのです。

よって「ケガレ」とは、主に他人の溜まりにたまったジュミ(罪)が自分に付着することを言うのです。

「異様でけがらわしい罪(じゅみ)が自分に食い込んでくる状態」を古代「ケガレ」と言ったのです。

現代でも、この考えは生きていて、それは「何か忌み嫌うものが自分に入ってくる」ような時、これを強く拒否する表現として「けがらわしい」と言って着物などに触れ、手で払う仕草をしますが、古代の「ケガレ」の観念は今でも生きているということです。

これで「ケガレ」がほとんどの学者の方々が言われる「気が枯れる」などという世界とは全く無縁なものであるということがお分かりになったのではないかと思います。

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