続々々・示す偏(しめすへん)は神事の漢字ー「禊(みそぎ)と祓いの極意」追加ーシリーズ11

 

続「みそぎと祓いの極意」

前回お話ししました禊(みそぎ)と祓(はらい)の極意、その奥義(おくぎ)について、これはとても皆さん関心の多いにあるところであると思いましたので、また神社神道の大きな極意の一つでありますので、もう少し詳しくこれをおさらいしてみたいと思います。

身についた罪穢(つみけが)れを無にする「プルクチ(不思議な力を奮い起こす行為)」とは、具体的には、どうすることか?

それは、左右左の無限なるもの(∞)の象徴的な形を取りながら、「左から罪穢れを引き受けて、これを右の根の国・底の国へとお祓いし、そのあと再び左へ引き戻して清めを天から授かり受ける」、これを心を込めて行うことことがほんとうの修祓(しゅばつ、お祓いの神事)なのだというお話を、前回しました。

ただし、そこには、気という素粒子レベルの強いエネルギーが働いていることを忘れてはいけないこと、この気のエネルギーこそが、また「祈り」や「祓いの奥義(おくぎ)」でもあることをお話ししました。

ですから、以上のことをほんとに分かって自覚して行わないと、気のエネルギーが入らない分、その効果はないという肝心なことをもお話ししました。

気のエネルギーは人の意識によって動くことをしっかり肝に銘ずることが大事です。

それは取りも直さず、神社の起源に関する有名な名言である「神は人の敬(けい)によってその威(い)を増し、人はその徳(とく)によって運を添う」世界と全く同じだということです。

この文言も、宇宙創成以来、宇宙至る所に遍満し、万物に宿り、人に宿り、人の意識によって動き、力となる気のエネルギーのことを述べているのです。 

ですからこういう仕組みを知らないで、ただ単に形式的に「祓詞(はらいことば)」と左右左と幣(ぬさ)を振るだけでは、その効果のほどはたかが知れているということを申し上げました。

それから、最後の天から「清めを授かる」と言う表現ですが、清め(きよめ、kiyoumai)とは古代弥生語では、単に浄化をするという意味ではなくて、天から授かるすべての人にとっての良いことを指しています。

いちいち申し上げませんが、人間にとって良いことの全てをさしています。

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禰宜(ねぎ)の語源はなに?

さて、示すへんの言葉として、今回は神社の禰宜(ねぎ)の「禰、ね」という漢字を取り上げてみます。

示すは「天」を表し、爾(じ)は天に対する「汝(なんじ、お前)」の意味で「地」の意味だと取れます。

一般にはネギの語源を調べてみますと「和ませる」意味の「ねぐ」からきているのだ、とい言っているようです。

「神の心を和ませてその加護を乞う」、というのが一般の解釈のようです。

江戸時代の文献によりますと、禰宜は、すでに前回、解説いたしました神主の祝 (ほうり)の上位にあり、 また一般に神職の総称とされていましたから、よく神主さんのことを禰宜(ねぎ)さんと言ったのはここから来ているのです。

一般的には上から、宮司(ぐうじ)、禰宜(ねぎ)、権禰宜(ごんねぎ)の順になっていて 禰宜は宮司を補佐する立場にあります。

このネギのトップを大きな神社では戦後になって権宮司(ごんぐうじ)として置く場合が多くなり現在ではこれが普通になっています。

権宮司の「権」とは「権利」とか「権現様」とかの権で、仮の、とか、副の意味というを持っています。

ですから権宮司とは仮の宮司、副宮司という意味になります。

切り札の「禰宜、ねぎ」の弥生語からの解読

では次にこのブログの切り札、古代純粋弥生語からこの語「ネギ」の言葉はどのように納得のいく説明ができるかを述べてみたいと思います。

やはり、 「ねぐ」を「神を和らげる」 と解釈するのは、統一的見解としては根拠の薄く得心の行く答えではないようです。

「神を和らげる」という意味では、神の機嫌を損なわないようにする意味になるわけで、確かにそういう一面から祀りだした神社は確かにもありますけれども、かといってそれが本来の神社の起源とは言えないからです。

菅原道眞公(すがわらみちざねこう)を和らげるため天満宮が建てられたり、平将門(たいらのまさかど)のための神社もそういう部類には属するかと思いますが、かといって本来の神社の起源としては妥当ではありません

変則なものです。

ではこの「ねぐ」という言葉を使っていた天族の弥生語ではどうなるのか、をお話しします。

ネギというのは元来、「ねぐ」という動詞の名詞化の「ネギ」で

菅原道真公

す。

平将門塚

「ネ、ai」は、まず、「ナ行は秩序を表す言葉」であるということ、そして二重母音の「転換(てんかん)・変換」の意味を表す「ai」で、聞こえる音は「エ」なのですが、古代天族の言葉の弥生語には「母音、エ」は元々ありませんでした(母音エは韓国語で多分五、六世紀頃、渡来人がもたらした母音なのです)。

例えば、根っこの「ネ、nai」は「秩序の意味+転換の意味の<ネ、nai>」から成り立つので、根っこの「ネ、nai」という意味になるのです。

どういうことか?と言いますと、たとえば、桜の根(ネ)とは、その根の部分で土地に含まれているいろんな肥やしとか養分を根の部分で 桜なら桜という秩序体に転換するための部分なので「桜の根(ネ)」というわけです。

ですから「禰宜」の「ネギ」とは、「人々の願いを神へと転換する神職」の意味となって来るわけです。

その人と神の間に立ってその願いを変換・転換するから「ネグ➡その名詞形のネギ、禰宜」 というわけなのです。

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