大和言葉の中の弥生語10ーマ行は「目に見える世界」です

弥生語マ行は「目に見える世界」

ま行は 基本的に弥生語では「目に見える世界」を表します。

ma(マ)  mau(マ)  mo(モ) mou(モ) mu(ム) mi(ミ) miu(ミ) mai(メ) の八種類の「子音+母音」 があります。

まずma(マ)から。

「祓詞(はらえことば)」の中の表現に 「諸々の禍事(まがごと)罪穢(つみけが)れあらむをば」というくだりがあります。

罪も穢れ も 弥生語ですが、ここで取り上げるのはマ行ですので「禍事(まがごと)」という言葉の解説をします。

これもれっきとした弥生語で、

マ       カ    コ    ト

(ma)       (xau)     kou      tou

(まことの姿を) (食っていく)   (こと)

ma(マ)とは「目に見える真(まこと)の姿」

xau(カ)は、奈良時代以後は h音とk音へと変化していった特殊な弥生語です。

元来が「食べる、食い込む」という意味です。

このx子音のわかりやすい現代を探すと、「食らう」「食(く)う」はそれぞれ「xurau」「xu」が語源となっているのです。

古代そのままの発音が現代にも生きている、とても珍しい例だと言えます。

x音は古代語の「喉音(こうおん、のどから発する音)」と呼ばれるものです。

なぜ「喉(のど)の音」かと言いますと、喉から手が出るほど欲しいものとは、まず食べ物だという実に単純明快でわかりやすい理由から出来上がっている言葉なのです。

ですから「マカ(xa)コト」というのは、解読しますと、まず肉体を含めた真の姿が「マ」、食われるのが「カ」、そして「コト」の意味で、例えば肉体が食われればそれを病気という禍事(まがごと、災い)、地震や火事など事物がこわれ破壊され「食われる」状態をやはり禍事(わざわい)と古代でも考えられていた訳です。

ついでに、ここで一言申し上げますと、この古代弥生語を専ら使用した日本人とは、米や鉄などを中国から朝鮮経由で日本へもたらして一大勢力を築き、スメラ三コト(天皇)を中心に今の奈良地方の大和に一大代政権を打ち立てた九州の倭人天族 のことです。

彼らの宗教とも言うべき神社の形をもった神道の重要な言葉のほとんどが、彼らが使っていたここでいう古代弥生語なのです。
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マ(ma)と言う弥生語の具体例

マ(ma)と言う弥生語についてもう少し話を進めます

真似る、という言葉があります。

ま     ね    る

(ma)       (nai)    (ru)

(まことの姿を) (転換)  (する)  で「真似る」意味になるのです。

祀る(まつる)、という言葉も、倭人天族の宗教用語です。

この言葉の語源を十分な根拠に基づいて明らかにした国語学者は、私の知る限り、一人もいません。

何故なら、これはれっきとした弥生語ですから 、弥生語の基本語法を知らなければ明らかにすることなど到底できないからです。
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神を祀(まつ)るとはどういうことなのか?

まつる(祀る)

マツルとは、元々の弥生語は、マパツル、です。

マ             パ               ツ     ル

(ma)           (pa)             (tu)   (ru)

(目に見える真の物質と)(目に見えない真のエネルギーとを) (積み重ね) (る)

どういうことかと言いますと、この世界はマパ➡マハ➡マワ、 すなわちmaという目に見える世界とpa という目に見えない世界から成り立っています。

この二重構造をマとパとで表現しています

つまりマと ワという二重構造によって「この世はマワル」ということです。

この二重構造という概念は、現在の最先端の量子力学の観点から言っても、その真実性は証明されています。

この世界が回るのはこの「マパの構造」からきていることを古代の人々は天啓によって、よく分かっていました。

その一つの証拠が「弓前文書」の神文(かみふみ)です。

実は、古事記冒頭の十七柱の神々の記述が、神文(かみふみ)を元本として展開されているのですが、その元本が現代科学の宇宙創成説とそっくりであることからしても、古代の人々は実に現代の最先端の科学者のような叡知を天からすでに受けていたようです。

しかし少し考えてみれば、三千年位前の人間だって、約38億年前からの叡知を遺伝子の中にもっているのですから、以上のことは大いにありうることだといって差し支えないと思います。

この目に見える太陽や月や山や海の大自然の背後にある見えない真(まこと)のエネルギーを神としてマパツル、すなわち祈りによってその内の不可視の「パ pa 」のエネルギーをその社(やしろ)に積み重ねて行くことによって成立したのが、わが古代の神社神道であったということができます。

ですから、神社の「神の成り立ち」は人間の祈りの想念 の集合体が蓄積される力と自然のエネルギーとの合体したもので出来ている、

祀(まつ)るという弥生語

という言い方ができるかと思います。

このことが分かると「神は人の敬(けい)によりその威(い)を増し、人はその徳(とく)によりて運を添(そ)う」という「神社というものの実相(ほんとうのすがた)」がよく分かるかと思います。

ですから、人間側の「マパツル」という行為がおろそかになれば、その神社の神威は衰退していくのは当然のことで、「祭祀(さいし)の厳修」が強調されるのはそういう理由からです。

神社というのはそういう所なのですね。

そういう意味では、仏教の寺院も、、本来は、修行を通して自らが仏(如来<にょらい>ないし神)であることを悟り解脱するところであったのですが、やがてそこに「仏像を安置してマパツル(祀<まつ>る)」行為をしているという点では、寺院も神社化している、と言えるかもしれません。

今回はその他のm行の言葉の解説は割愛し、もう一つだけ、ミ(miu)という「物」を表す言葉を取り上げてm行を閉じたいと思います。

例として、身ごもる、と身まかる、という現代でも使われている言葉を取り上げます。
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女は身ごもり、いつか身罷(まか)る

身ごもる(妊娠する)とは、

み     こ     も      る

(miu)   (kou)  (mou)   (ru)

(身体の)  (固まりが) (進んで) (行く)状態

身ごもるという弥生語

ということです。

身まかる(身罷る、亡くなる)は、

み      ま      か      る

(miu)    (ma)   (xau)    (ru)

(身体の)   (真の姿が)(食われて)  (無くなる)

要するに、身体が朽ち果てていく、いわゆる「死ぬ」という状態を弥生語は実に巧みに表現しています。

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