中津身(宗教家)が藤原氏(政治家)と成ったワケ-かんながらの道(随神の道)ー神社ができた頃の古代史と古代語16
藤原不比等は常に表に立つ中津身として藤原氏を政治の世界に専念させ、残りの中臣氏は神祀りに専念するという風にしたのは、表の中津身と裏の弓前和(ゆまに)という伝統にヒントを得たと思います。
かむながらの道の宇宙と日本古代の歴史と言葉
藤原不比等は常に表に立つ中津身として藤原氏を政治の世界に専念させ、残りの中臣氏は神祀りに専念するという風にしたのは、表の中津身と裏の弓前和(ゆまに)という伝統にヒントを得たと思います。
卑弥呼(ひみこ)は女王という権力者ではなく、霊能に優れたヒメカミと呼ばれた巫女(みこ)で、神意に基づくさばきが出来たので”倭国大乱”を鎮めることが出来たのです。
記紀を読むときは神をあたかも人間であるかのような擬人化の手法で記紀神話は書かれているという視点が非常に大切です。また鹿島と香取は同じフツでも剣と鞘の関係にあることを知る必要があります。
崇神天皇を記紀いずれも「ハツクニシラススメラミコト」としています。日本国を始められた天皇の意味です。神武天皇もハツクニシラススメラミコトとしています。日本書紀はこれをほっといています。皆さんはどう思われますか。
なぜ千葉・茨城の古い神社はみんな古代P音で始まる御祭神なのか、それに答えます。そして、鹿島の神は社殿が北向きと言われているが、実際の御神座は正しく東を向いています。それはどうして?
鹿島・香取の親神、手力雄神の助力なしには天照大御神も上手くいかないことを暗示しているのが内宮の中の相殿神に手力雄神が祀られていることです。記紀では、手力雄の代わりにその子、鹿島・香取の神がしばしば呼ばれる形をとっています。
外宮の神トヨウケは日神、天照大御神が地に下った分身で、内宮・外宮は、元来は対等であり、成立は外宮の神の方が先だ、と伝承しています。この名残が「外宮先祭」として受け継がれているのです。
春日大社の境内には「手力雄神社」が何故三つも祀られているのか?それは、手力雄神が第一神殿の鹿島の建御雷神と第二の神殿の香取のフツヌシの神の親神だったからです。
初代中津・弓前は天の児屋根の孫で、鹿島神宮の伝承では「天の種子(たねこ)」と伝えている。
神社創建の日本古代史で鹿島香取の創建の事が詳しいのは、「委細心得」が中津弓前(なかつゆま)一族という古代中臣氏に与えられた天の児屋根からのメッセージだからです。