中津身(宗教家)が藤原氏(政治家)と成ったワケ-かんながらの道(随神の道)ー神社ができた頃の古代史と古代語16

中津身(なかつみ)とはなにか?

今回は、中津身(なかつみ)とはなにか、について考えてみます.

鹿島 に い た 中津 の 一族 のうちその長を「中津身」といいました。

中津身は、「 常に 表 に 立っ て、 タカミムツ 大 霊 の 御心 に 従う 術 を 修める こと」 を 本分 として い まし た。

「タカミムツ 大 霊 の 御心 に 従う」とはどういうことでしょうか?

それは、すでに述べましたように、天照大御神という、いかなる人にも日の光を与えたもう仁愛そのものの御名代(ごみょうだい、代行者)になられておられる天皇を国の中心にいただく国を守るということであり、その為に、最後にして最大の中津身といわれる藤原不比等は、中臣氏を霊的側面としての神事の役割を担う中臣氏と実際の立法・行政を司る政治家の藤原氏とに分けたのです。

藤原不比等公碑

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常に表に立つ中津身が藤原氏となった

つまり、「常に 表 に 立っ て、 タカミムツ 大 霊 の 御心 に 従うべし」という先祖、天の児屋根の命に従って、不比等は、あくまで「中津身」の後進として藤原氏を立ち上げたのです。

あくまで「中津身」として、大君(天皇)のために尽くすことにあったのです。

ところが、歴史の皮肉とでも言いましょうか、こういういい意味での深謀遠慮(はるか先の事まで深く考えて計画する)を、藤原道長(ふじわらみちなが)などのような三流政治家が、逆に利用して「わが世の春」をうたう手段にする大馬鹿者を生むという弊害も起こりました。

すなわち「この世をば」わが世とぞ思ふ 望月の かけたることもなしと思へば」(この世界は私のためのものであるように思う。満月に欠ける部分がないように、私は完全に満ち足りているから、という意味。道長は三人の娘を皇后にしている)などと位

藤原道長

(くらい)を極めたことを自画自賛している大馬鹿者を生むために、不比等は政治家藤原氏を立ち上げたわけではないのです。

藤原氏の貴族にはこういう道長のような「つまらない人物」が少なくなく、「タカミムツ 大 霊 の 御心 に 従う」高い志を持つ政治家は藤原氏にはあまりいなかったように思います。

一方、 弓 前(ゆま) の 一族 は、 香取 の 神職 として、「 内 に あり て 我( 天 之 児 屋根) の 教 うる タカミムツ 大 霊 の 力 の 数々 を 知り、 その 法 を 修める」 わけ です から、 弓 前 は 表 には 立た ず、 ひたすら 天 族 の 神 の 教え の 依っ て 立つ 哲学 と 掟 を 守り 考究 する こと が、 本来 の 職分 でし た。

弓前の長を「弓前和(ゆまに)」と言いました。

「弓前文書」を文字化した弓前値名(ゆまあてな)は弓前和でした。

だからこそ『 弓 前 文書』 は 香取 に 残さ れ て い た わけ です 。

ともあれ、こういう、 九州時代のはじめ から 大王 側近 という 由緒 が ある 鹿島・香取 の 一族 で あっ たれ ば こそ、 中央 中臣 氏 の 欠員 にも、 すんなり と、「 中臣 氏」 を 賜わっ たり、 聖徳太子 時代 に、 改めて 出来 た 大夫( 議政官、 今 の 大臣 クラス) の 位 にも つけ た の です。

こういう 背景 と 歴史 を 知れ ば、 もはや 鎌足 を「 成り上がり もの」 などと 見なす こと は あたら ない こと が わかり ます。

しかし、 こう いっ た 背景 が わから なけれ ば、 おお やけ の「 大 祓い」 を 私的 名称 で ある「 中臣 祓い」 と 僭称 し た とか、後からやって来て 陰謀 を めぐらし て 物部 氏 から 鹿島・香取 を 奪取 し た、 など といった 誹謗・中傷 などが 噴出 し て くる のも い た しかた の ない こと なの かも しれ ませ ん。

京 大 の上田 正 昭元教授は「『 延喜 本系』 や『 日本書紀』 の 伝 文 に みのがせ ない のは、 中臣 氏 が 鎌足 の 代 に なっ て はじめて 中央 政界 に 重き を なす に いたっ た のでは なく、 それ 以前 に 議政 の 府 に あり、 また 祭官 として の 役割 を になっ て い た こと で ある。

……………… 中臣 御食 子( 鎌足 の 父) が、 天皇 に 近侍 し て 議奏 に かかわっ た と する 伝え などの よう に……」(『 藤原不比等』  ) と あり ます よう に、 常磐 以来、 鎌足 の 父、 御食 子 に 至る まで、 はじめ から 天皇 に 近侍 する 身分 を 得 て い た のも、 以上 述べ た よう な、 遙 か 昔 の 九州 五島列島 時代 からの伝統であったのです。

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