稲作の始まり
稲作がいつ頃始まったのか それについては今でははっきりしています。
場所は5000年から7000年前の中国の雲南や長江の地方です。
そして紀元前3000年頃には揚子江に広がり 中国の山東半島からその対岸の朝鮮半島へは紀元前1000年に伝わります。
そして 普通であれば 日本に入ってきた稲は 中国から朝鮮半島を経由してもたらされたものだ と考えそうですが 実はそうではなかったのです。
どうしてそれが分かったかと言いますと それは稲の遺伝子の解析からでした。
中国の南部 揚子江の中流域から 東シナ海を経由して九州の博多か もしくは狗邪韓国(くやかんこく)の任那日本府(みなまにほんふ)に達するルートだったのです。
ただこの辺のところがこれまでの教科書でも曖昧でした。
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倭人天族の登場
昔の日本史の教科書では 中国や朝鮮から九州へやってきた「弥生人と呼ばれる人々」が縄文の日本の人々に稲作を指導したといったような「大陸人渡来説」のような書き方をしているような記憶があります。
教科書も先生方もこうした少し漠然とした捉え方でこの問題をスルーしごまかしていたように思います。
現に今(2022年1月現在)でも「 NHK の日本史の高校講座」の解説には次のように書かれています。
そこに「紀元前4世紀ごろ、大陸から北九州に渡って来た人々によって、稲作とその技術が伝えられました」と書かれているのです。
こんな認識が 今でも一般的であったとは驚き 呆れました。
これでは「大陸から渡ってきた日本人以外の人々によって稲作とその技術はもたらされた」と考えます。
もっともそれは半分正しく 半分 肝心な点で大間違いです。
半分正しいというのは「稲作の技術を伝えた」のは 確かに「大陸から北九州に渡って来た人たち」なのです。
しかしそのことは「大陸から北九州に渡って来た中国人や韓国人の人々」が日本 にやってきて日本をリードし支配したという意味ではありません。
もしそうなら 今頃日本の言葉は中国語か韓国語が主導的で基本的な言葉となっていたはずです。
言葉は基本的にその社会をリードし支配する人々の言葉であるはずだからです。
しかし実際にはそんなことはなく 漢字が日本に導入されたこと以外は 全く言葉自体の原音はあくまで日本の言葉です。
ですから 古代日本人の何者かが 「これらの人々を雇い集め その稲作の技術指導をする人々を大陸から北九州に連れてきた」というのが本当のところだったのです。
先ほどの高校講座にある表現では そこのところが分かっていない表現になっています 。
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倭人天族の正体
では「これらの大陸から北九州に渡って来た人々を雇い集め それまでの縄文時代の生活を変えていった人々」とは誰のことなのでしょうか 。
それは中国の周 漢 魏の大昔の文献に「倭人(わじん)」と記されたれっきとした日本人のことです。
その「倭人(わじん)」の人々の正体とは 約2万年ほど前から原縄文人としてこの日本の中でガラパゴス的(特異な環境の中で独特の発展を遂げた)隔離状態の中で土着していた人々なのです。
倭人
そして氷河時代の氷解以後の約12000年前位から 陸に残る縄文人と海に進出していった二つの縄文人に分かれていきました。
そして2〜3000年ほど経った頃には その両者は言葉や風俗でも かなり異なる世界に生きるようになっていました。
そして海に進出した倭人の海人(あま)族は 紀元一世紀前後の頃には 既に九州の五島列島や博多を拠点として中国の山東半島から朝鮮南部の狗邪韓国(くやかんこく)の任那日本府(みまなにほんふ)瀬戸内海 難波(大阪)さらには三輪(大和)に至るかなり広範囲な交易圏を形成し やがて強力な存在となっていました。
この頃の古代日本では 壱岐・対馬(いき・つしま)を挟む朝鮮半島の南部と 北九州の両岸には「倭人」が居住していて その 対岸の朝鮮は 狗邪韓国(くやかんこく)の任那(みなま)と呼ばれていました。
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倭の国 の強さ
そこには「任那日本府(みまなにほんふ」が設置され この役所のことは日本書紀にも「れっきとした日本の統治機関として存在していた」と記録しています。
当時 倭国の影響力が少なくとも朝鮮半島の南部にはしっかりと根付いていたのです。
すなわち 倭人は自国の橋頭堡(きょうとうほ 足がかり)として倭国の分国として狗邪韓国や任那日本府を設立していました。
そして早くも1世紀の中頃には 百済や新羅に先立ち 後漢に使者を何度も送り朝貢をするだけの実力をもっていたのです。
また3世紀には 倭人は高句麗(こうくり)の好太王(こうたいおう)と15年間もの戦争を展開するほど朝鮮半島に強烈な軍事的影響を与えていたのです。
280年代 国王を頂いている国は 扶余 (ふよ 後の満州王国)と高句麗(こうくり)と倭(日本)の3カ国だけでした。
要するに 新羅や百済などの古代朝鮮は 倭国に対しては 経済面 海運業 更には軍事面においてもリードする立場などは到底ありませんでした。
そして倭の国 の博多には「一大率(いちだいそつ いちだいすいとも言う)」というその頃最も強い力で海を支配し 船の出入りの管理を行う海兵隊のような存在が常時いたことは 中国の文献にも記載されています。
しかしながら 七世紀の天智天皇時代に 白村江(はくすきえ)での大敗によって韓国の南部にあった「任那日本府(みまなにほんふ」も封印されることになるのですが 以上のような事実があったことは確かなことなのです。
白村江の戦い
ところで現代の縄文から弥生へについての学会の定説実は大変お粗末で 井上光貞(元東大教授)らが言うように「これらの弥生の稲作の文化は若干の移住者等によって海の向こうからもたらされた可能性が大いにあるが その人たちもやがて縄文時代人に体質的に同化され 日本人全体が弥生式文化へと進んでいったのであろう」という程度のまことに曖昧で貧しい認識しかないようです。
ついでに この文章は1973年の初版の井上教授による「日本の歴史1」にのる文章です 。
さて 繰り返しになりますが 倭人天族は元々内地にいた縄文人とは同族であったので当然 DNA は同じです。
そして最後の氷河期が終った約1万前前後あたりから その後約数千年以上にもわたって それぞれの縄文人が内陸民と海洋民とに分かれていったことから やがて生活様式や言語も大いに異なる世界に進んでいったことは既に申し上げました。
そして 稲作をもたらした「弥生人の実態」とは この海洋民ヘと進出していった倭人天族のことだとも述べました。
この 倭国と倭人については「倭人は帯方(今のソウル)の東南大海の中にあり 山島により国をなす。 元は百余りの国 漢の時 朝見するものあり 今通ずるところ30カ国」(魏志倭人伝)
また漢書に「楽浪(今の平壌)海中に倭人あり 百余国に分かれて相争う」とあることも何度か述べたところです。
そして後漢書には「紀元57年、倭の奴国が、貢物を持って後漢へやってきた。使者は自らを大夫と称した。奴国は倭の南方に位置し、光武帝はその使者に対し 奴国に官職を与えるための印鑑を授けた。」(後漢書) という文献もあります。
この後漢書の記事が日本と中国の交渉のはじまりとされています。
そしてその「倭の南方に位置する奴国(なこく)」こそは「倭の大君(後の天皇)がいた五島列島」のことです
しかし そのことから 室町時代の禅僧の 瑞渓(ずいけい)が著わした「善隣国宝記」や「異称日本伝」を書いた松下見林(まつしたけんりん)などにも 共に 日本の国はすでに統一されていたなどと誤って考えていて 中国の言う「倭奴国(わのなのくに)」が「倭国」であり それが「統一日本」なのだと 二人とも大変な勘違いをしています。
一方 本居宣長(もとおりのりなが)だけは「これも百余国という中の一つで”倭国の極南海なり”とあるので つくし(九州)などの南の方であろう」と記し<この一世紀の頃には まだまだ倭人の国というのは統一国家などではない>ということを宣長は既に見抜いています。さすがです。(馭戎慨言<からおさめうれたみごと>より)
ついでに 魏や晋などの中国人たちは大抵が倭の国を”倭国の極南海なり”として 彼らから見て相当南の方にあると錯覚していたようです。
実は この錯覚こそが「魏志倭人伝の中の<邪馬台国>のある場所」を狂わせた最大の原因となります。
「南へ水行10日 陸行1月」も行ったら九州の南の海の真っ只中です。
ほんとうは それは「北へ」の錯覚だったのです。
この話は次回に譲ります。