現在の春日大社成立秘話
香取の神が 春日大社に祀られたの は、鹿島の神が三笠の山の頂上に祀られてから60年経ってからのことです。
それが神護景雲2年の768年の年なのです。
このワケを解き明かします。
そこにはどんな学者も歴代の春日社の神主もご存じない秘密のワケがあったんですね。
その文献は「弓前文書」の中の「委細心得」の中にのみ記されています。
現在の春日大社
しかも、厄介なことに、その文章を一読二読したくらいでは分からないようにしか書いてありません。
いや、百読しても分からないかと思います。
その秘密の文献とは前回引用しました次の文言です.
すなわち
「不比等、御雷の珠(ピカの珠、建御雷命の分霊)を都に招ぎぬ。ここに、鹿島の司をしてその分霊を奉じて、都に登らしむ。」
ここまでは、よくわかります。
ところが、次の
「弓前和(ゆまに)、今尾比凝(いまをひこ)の時、詔(みことのり、天皇の命令)あり。
弓前和、布土の珠(フツの玉、経津主神の分霊)を奉じて都に登るべし。
今尾比凝は、自ら中津身(なかつみ、鹿島・香取の統率者)となり、鹿島の宮に移り、今人麿(いまひとまろ)を弓前和として都に登らしむ。
今人麿は、藤原姓を賜り、今和(いまに)の位にあり。
春日山の麓なる宮代に御雷と布土の珠(経津主神の分霊)を共に鎮め給いき。」
ここのところに来て、すんなりとはわからなくなってきます。
春日大社の原点
まず、
「不比等、御雷の珠(ピカの珠、建御雷命(タケミカヅチノミコト)の分霊)を都に招ぎぬ。ここに、鹿島の司をしてその分霊を奉じて、都に登らしむ。」
これが春日大社の原点です。
これが、706年の平城京が出来たときの、三笠山の麓ではなくてその頂上に祀られた現在「本宮神社」と呼ばれているお社です 。
この時は、不比等によって 祀られたのは鹿島の神、建御雷命(タケミカヅチノミコト)のみです。
そのことは次の文言によってよくわかります。
すなわち、
「弓前和(ゆまに)、今尾比凝(いまをひこ)の時、詔(みことのり、天皇の命令)あり。弓前和、布土の珠(フツの玉、経津主神の分霊)を奉じて都に登るべし。」
「今尾比凝(いまをひこ)」という人物が「弓前和(ゆまに)」という存在であった時に、時の天皇、称徳天皇の命令で、香取の神、布土の珠(フツの玉、経津主神の分霊)を奉じて都に上るようにとの命令がくだされたのです。
この文言から、やはり香取の神、フツヌシは、そして天児屋命(あめのこやねのみこと)も比売(ひめ)神も、不比等の時には祀られてはいなかった、ということがよくわかります。
ですから現在、本宮神社に経津主命と天児屋命が合祀されていますが、これは後世に書き換えたということが判明するわけです。
では、 「今尾比凝(いまをひこ)」という人物が「弓前和(ゆまに)」という存在であった時に、時の天皇、称徳天皇の命令で、香取の神、布土の珠(フツの玉、経津主神の分霊)を奉じて都に上るようにという命令がくだされたのはいつか、ということになりますが、称徳天皇の時ですから、これが現在のふもとの春日大社創建の、神護景雲二年で、その年は、不比等が鹿島の神を祀った708年から60年も経った768年という年です。
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なぜ今尾比凝(いまをひこ)は、香取の神を奉じて春日の宮司になる勅命を拒否したか?
問題は次のところからです。
この称徳天皇による詔を、指名された「弓前和(ゆまに)」である 「今尾比凝(いまをひこ)」という人物がこれを拒んで、「今尾比凝は、自ら中津身(なかつみ、鹿島・香取の統率者)となり、鹿島の宮に移り、今人麿(いまひとまろ)を弓前和として都に登らしむ。」とありますように、代理に今人麿(いまひとまろ)という人物を立て、自分はさっさと鹿島の「中津身」となって鹿島に移ってしまったのです。
それは何ゆえか、ということです。
どうしてこんなことが起こったのか、読者はここに何か「いわくありげ」な事情が潜んでいる、と感じることでしょう。
なぜこんな名誉ある詔(みことのり、天子の命)を拒んで、代理を立ててまでして自らは「鹿島の中津身」となって雲隠れしてしまうのか、という疑問です。
これを理解するには、まず、香取の「弓前和(ゆまに)」と鹿島の「中津身」というものが一体どういう存在なのかを説明しないとお分かりにならないかな、と思います。
そもそも、鹿島・香取の神を奉じて九州の景行天皇の御代に九州からこの東路の果てにこの神々を鎮めて国の安泰のためにやってきたのが「中津・弓前一族」たちであります。
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中臣氏・大中臣氏の起源
中津・弓前一族、この一族が後の「中臣氏(なかとみし)」となって行きますが、彼らは、そもそも、どういう出自(しゅつじ、うまれ)なのでしょうか。
これを理解するには、香取の「弓前和(ゆまに)」と鹿島の「中津身」というものが一体どういう存在なのかをまず説明しないとお分かりにならないかと思います。
そもそも、約4世紀半ば頃ですが、鹿島・香取の神を奉じて九州の景行天皇の御代に、九州からこの東路の果てにこの神々を鎮めるためにやってきたのが「中津・弓前一族」たちであったということです。
では、そもそも中津・弓前一族とはなにか?
この両一族は、いわゆる大和朝廷が奈良にできる前の九州時代の倭人海人族(わじんあまぞく)と言われていた時代に、その一番トップである大君、後の天皇のことですが、その天皇に側近としておつかいしていた一族です。
なぜ側近なのかと言いますと、大君が何か重大な決定をする時に占いを持って奉仕していたグループがこの中津・弓前(なかつ・ゆま)一族であったからです。
右すべきか左にすべきか、人生には迷って決断を下せないという状況が誰でもあると思います。
しかも、大君ともなればその影響力は極めて大きいので慎重を期さなければならない 、あるいはなかなか決心しがたい状況があるかと思います。
そのような時、古来から用いられた手段の一つが占いや霊能であったわけです。
中津・弓前一族はその意味で大変重要かつ重宝な大君の側近であったわけです。
ところが、紀元後350年くらいの頃に、天の命令で鹿島・香取の神を奉じて九州の景行天皇の御代に九州からこの東路の果てに、この神々を鎮めるためにやってきたのが「中津・弓前一族」たちであったのです。
中津一族は鹿島に弓前一族は香取に奉仕するわけですが、その役割は少し違います。
鹿島の神職としての中津一族は占いを始め神と交わる霊能的な技を得意とし、一方香取にいる弓前一族はそうした方面の宗教的理論や哲学の考究を専門と していて、この区別は厳格に守られていました。
しかし時代は下って 飛鳥・ 奈良時代になると、この中津一族のうちの長である中津身(なかつみ)としての中臣可多能古(かたのこ)は再び天皇の側近として都に招集され、これが後の藤原氏と大中臣になって行くのです。
藤原氏の起源は実はこの「鹿島にいた中津身(なかつみ)」 であったというわけです。
このような考えは学者の間にも仮説としてはありましたけれども、しかしよくはわからなかったところです。
そしてその最後の中津身が、藤原不比等その人でした。
この不比等が三笠の山の頂上に鹿島の神だけを祀っていたのが、708年という年でした。
これが何度も言いますように、本当の春日大社の起源です。
ところがそれから60年後の768年(神護景雲2年)に、現在の鹿島と香取そして天児屋根と比売神の春日大社 が出来たのですが、この成立にはある人物の野心がとても大きく関わっていたのです。
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現在の春日大社の陰の創立者としての大中臣清麻呂(きよまろ)
その人物とは、時の右大臣にして神祇伯(じんぎはく)であった大中臣清麻呂(きよまろ)です。
右大臣といえば天皇から数えても国のナンバー3であり、神祇伯とは祭りを司る最高長官でありますからその権勢は絶大なものがあります。
この清麻呂も元は中臣可多能古(かたのこ)という鹿島の中津身という藤原氏とその先祖は元々同じなので、自分がその中津身になりたいという、いつの頃からかそのような野心を持つようになっていたようです。
大中臣清麻呂
ところが、その中津身をその当時 香取にいた「今尾比凝(いまをひこ)」という人物が成っていたので、この人物を神護景雲2年の768年の年に春日大社の宮司にさせて、結果、空席となるその中津身の位を我が物にしようという野心を清麻呂は、前々からひそかに成就せんとはかりごとをめぐらしたわけです。
どうしてそんなことが言えるのか、と思われるかもしれませんが、その証拠があります。
当時の中津・弓前の規則として、 中津身になるにはまず「弓前和(ゆまに)」として一定の期間、香取の宮司になる、それから鹿島にわたって中津身になれるという手順が必要でありました。
清麻呂もこの手順を踏んだ形跡が「香取群書集成」という文献の中にあるのです。
「香取神宮宮司」として、実際にはありえないのですが、清麻呂の名前がしっかりと記録されているのです。
この清麻呂の野心を見抜いた当時の中津身であった「今尾比凝(いまをひこ)」という人物は、代理に今人麿(いまひとまろ)という人物を立てて、自分はさっさと鹿島の「中津身」となって鹿島に移ってしまってその清麻呂の野心を拒否したのです。
これですっかり清麻呂は 肩透かしをくわされ、その代わり代理が香取の神を奉じて 春日に行き神護景雲2年の四つの神殿からなる現在の春日大社が成立したわけです。
現在の春日大社はこの大中臣清麻呂 の暗躍によって出来上がったわけで、ある意味、その貢献者と言えなくもないわけです。
神社成立にはいろんな裏話があるものなのです。
神社という所も、結局は、「人の敬によって」成り立っている、あくまでも人間が創設する所だからです。
この話は、拙著「古事記、祓い言葉の謎を解くー伊勢・鹿島・香取・春日の起源(叢文社)」にもさらに詳しく書きましたので興味のある方はご笑覧ください。
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よろしくおねがいします。