古事記と神文の対比としてのアメノミナカヌシの神
前回の<古事記のウヒヂ二の神からオホトノヂの神までを神文で解読しますー地球の誕生>にヒントを得て、古事記と神文を対比して示すことで、順序が逆にはなってしまうのですが、改めて<古事記の天御中主からカミムスビまで>をわかりやすく解説します。
古事記 神文
アメノミナカヌシの神 アマノマナカヌチ
「天の中央にあって天地を主宰する神」「大宇宙の秩序は驚異の一大混沌の力の塊になった」
全てと言ってよいくらいのこれまでの学者が上述の古事記の「天の中央にあって天地を主宰する神」といった記述の解釈をしています。
それは、ユダヤ・キリスト教の一神教が暗示すような「天というところにまします天地創造主」、被造物であるわれわれとは離れれたところにある最高神、といった神を想像させます。
それも全ては「天御中主」という当て字の漢字からそういう解釈をしていると思います。
それが間違いの元なのです。
それは「中」と捉えて「真ん中」という当て字の漢字に引っ張られた解釈です。
これは ア マ ノ マ ナ カ ヌ チ
(a)(ma)(nou)(ma)(na)(na)(ka)(nu)(ti)という上代弥生語からきています。
アマノは「大宇宙の秩序立ては」の意味です。次は、マナで「真の姿」です。そしてカヌチ、(ka)(nu)(ti)が「驚きの混沌としたエネルギーの塊」と解読できるのです。
(ka)は、カ行は変化を表し、母音aで「最大に強い変化」となるので「驚きの」と翻訳したのです。
(nu)(ti)は(nu)が「無秩序、混沌」で、次の(ti)は、タ行の物量の最大形で「莫大なエネルギー」の意味になるのです。
結果、上代弥生語では、アマノマナカヌチは「大宇宙の秩序は驚異の一大混沌の力の塊になった」という現代日本語になるのです。
本居宣長でさえも、「天の中央にあってウシたる神、と申す意の御中なるべし」としか言えない哀れな現状が、古語解釈の現実なのです。
特に古事記・日本書紀に出てくる主要な神々の解読は実にこじつけに満ちた苦しいものがほとんどです。
アマノマナカヌチの神とは、実に流動的な原始宇宙の
本居宣長旧宅
無限混沌の状態の神の名であったのです。
やがて「物質を造らんとする意志のカミムスビの出現」によって、その結果、「物質世界の現象化としての森羅万象の出現としてのタカミムスビ」の時代を迎えて、アマノマナカヌチの神はいわば発展的解消をしてゆくのです。
これが「造化三神」といわれてきた神々の実相であったのです。
何度も言いますが、だからこそ大嘗祭や践祚大嘗祭にも、どの「宮中祭祀」にも平安時代に成立した由緒ある神社を記録した「延喜式」にも天御中主神は二度と出てこないわけです。
もう存在しなくなったからです。
だから今ある天御中主神を祀っている神社は、平田篤胤などが騒ぎ出して成立した江戸後期か不詳としているものばかりなのです。
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古事記と神文の対比としてのタカミムスビとカミムスビ
古事記 神文
タカミムスビの神 カミムスビ
「万物の生産・生成の陽の神」 「物質を生み出さんとする意志」
カミムスビの神 タカミムスビ
「万物の生産・生成の陰の神」 「物質を生み出す意志が発動し森羅万象となった」
まず、注目していただきたいのが、古事記では、タカミムスビが先に出てきてこの後に、カミムスビが出てきます。
古事記では、この編纂者がこの両神を陰陽の神と決めたからです。ただの陰陽の神なんですね。
陽はタカミムスビの神で、陰がカミムスビです。
すると、陽の方が先に行動を起こすのが正しいという考え(陽優先思想)から、これは陰陽男女を表すイザナキ・イザナミも同じ行動をするのをよしとする記述が見えますが、まあそういうわけで、陽神のタカミムスビが先に来ているわけですが、古代弥生語としての両神から見ると誠におかしく正しくないのです。
だって、まず「物質を生み出さんとする意志」のカミムスビが無ければ、物質が生まれるはずもなく、従って「霊妙なる森羅万象の数多出現の意味であるタカミムスビ」が出てくるはずがないからです。
皆さんは、古事記と神文の宇宙の始まりを見て、どちらがわかりやすく、ワクワクして楽しい宇宙創成に思えますか?
断然、神文ではないでしょうか?
だけでなく、神文の方が遥かに原始宇宙創成を現代科学とあまり変わらずに捉えていると思いませんか。
さすが、「神文」は高い叡知の世界におられる天児屋根命(アメノコヤネノミコト)からのメッセージだと私は確信しています。
天児屋根命を祀る春日大社の浮雲神社