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「トホカミエミタメ」という説
このように「天津祝詞の太祝詞」については、宣長説と篤胤説以外でしばしば挙げられるに「トホカミエミタメ」という言葉があります。
篤胤に私淑した国学者に鈴木重胤(すずきしげたね)という人物がいます。
どういう経緯でそう考えたのかわかりませんが、彼は、「吐普加身依身多女(トホカミヱヒタメ)」を天津祓(あまつはらい)とし、「寒言神尊利根陀見(カンゴンシンソンリゴンダケン)」を国津祓(くにつはらい)、「祓ひ玉ひ清め給ふ(ハラヒタマヒキヨメタマフ)」を蒼生(あおくさ)祓 として、この三つを「三種の祓詞(はらいし)」と称し、これを彼は「天津祝詞の太祝詞」としたのです。
重胤の書
トホカミエミタメは、伊奘諾尊(いざなぎのみこと)が禊ぎをしたとき実際に唱えたとされる、「遠つ神、恵み賜へ」に由来するというのですが、しかし、実はこれはこの神話の由来を知る者にとっては、あり得ない話なんです。
それに「遠つ神、恵み賜へ」に由来するなどとは、稚拙(ちせつ、子供じみて幼稚)な、ダジャレのようなこじつけ(むりやり関係づけること)としかいいようがありません。
それよりも、「イザナギ」(itsanaki)という、もともと弥生語である言葉の由来を「弓前文書の中の神文」で知っている者にとっては、イザナギ・イザナミ神話も、イザナキの禊ぎ祓えの神話も、奈良時代の記紀編纂者(へんさんしゃ、いろんな資料から編集する人)の創作神話であることはわかっています。
少しだけ申し上げれば、その中に出てくる「イツァヨミ、イツァナキミ」という言葉は、宇宙の成り立ちの中の最終段階である生物の発生のところに出てくる言葉で、それぞれ「イツァヨミ」は「雌雄増殖(しゆうぞうしょく)の生態」、「イツァナキミ」は、「生命の有限の個別現象が出現した」という意味です。
これでは当時の奈良時代の人々でもわかりずらいので、これを、イツァナキ・イツァナミの男女・雌雄の神としたのは、実は、奈良時代の記紀神話の編纂者だったということです。
ありえない、と申し上げたのはそういう意味からです。
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実証できなければ、どんな説も仮説です
ざっくばらんにお話します。
私もおそらく読者の皆さんの多くの方々も、そうだとおもいますが、学術的に記述されることはあまり歓迎されないですよね。
あの学者先生特有の、まわりくどい、もったいぶった、小難しい言い回しや語彙(ごい、単語の数)や専門用語をやたらちりばめて、人を煙に巻くようなて文章はやめましょう
ほんとうにはよくわかっていない人が、さもわかっているかのように言うときに、こういう物言いになるようです。
ペダンチック(学者ぶった、学識をひけらかす)とも言いますね。
元々わかっていないから学者(学ぶ者)をやっているわけなので、もっと「まだほんとうにはわかっていないものとして」シンプルで率直でわかりやすくいきたいものです。
話をもどします。
要するに、「天津祝詞は大祓詞そのもの」という宣長説では、どうも今一つ釈然としない、物足りない、と思う人たちがいたわけです。
そこで、祓いの言葉として古来(とはいっても奈良時代以来の日本語ですが)から伝わる「禊祓詞」を探し求めてついに発見した篤胤の天津祝詞が出てきました。
まあ、これでもいいのですが、これだと、結局は「祓詞」と同じものだし、これを大祓詞の中で唱えるのもおかしいかも、と考えてしまう人が、また出てきたわけです。
もっとも、いわゆる教派神道のおおくの教団では、これをやっているわけですが、これも、今一つ釈然としない人々も出てきたというわけです。
そこで、これこそ、あの大祓詞の中で唱えるべき「天津祝詞の太祝詞」ではないか、と考え出された文言ないし呪言が出てきました。
その一つが、鈴木重胤が言う「トホカミエヒタメ」といわれる言葉です。