生物ってなに?どのように発生したの?
ここは、生物の誕生のお話です。
生物の発生順序でいいますと、始まりの原核生物(げんかく)と言う段階から真核(しんかく)生物に進化して、 そのうちに、細胞一つの単細胞から消化器や排泄器を備えた多細胞生物が出現してきます。
そしてこの真核生物の中から オスとメス の雌雄 (しゆう)が生まれてきます。
大雑把ですが、こういうことになります。
前回の話で言えば 、ヒルコと言う単細胞生物の中に、アヤカシコネという遺伝子が生まれて、その結果、複雑な多細胞生物が出現してきたわけです。
さらに多細胞生物から 雌雄 (しゆう)の生殖細胞ができ、「受精して子孫を作る」イザナキ・イザナミの世界に入っていくわけです。
そういうわけで、食欲と並んで性欲が生物の一生の強力な原動力となっています。
神文と古事記に則して言いますと、そのうち単細胞生物の出現というアポチマ・ピル、古事記の淡島(あわしま)とヒルコ。
次に多細胞生物の出現としての アヤクチコネ・ポモダルホ、古事記のアヤカシコネとオモダルの神です
こうして、最後にオス・メスすなわち、雌雄のイザナミ・イザナの生物の出現となります。
地球上に生命が誕生したのが約32億年前、10億年前前後には多細胞生物が出現し、やがてオスメスの生殖細胞ができて、「受精して子孫を作る」時代に入っていきます。
初めの生物の増殖の方法は「分体」でした。
ただ、金太郎飴のように、いつまでたっても同じような金太郎が出てきます。
しかしこれでは果てしなく「変化」というものがない生物の連続です。
進化もありません。
そこで次の遺伝子の交換である性の交わりによる新しい惟神の道(かむながらの道)が生まれました 。
こうしたオスメス合体による生物の多種多様な発生をもたらしたカンブリア紀の大爆発を経て、それから約5億年以上をかけて人類という比類のない生物の発生の演出を宇宙はしたわけです。
その宇宙の創造する最先端の今ここに私たち人間は生きています。
過去のどの部分が欠けても私たちは存在していません。
この悠久の大自然がそのように生成してきた全ての進化を刻み込んだとてつもない遺伝子を持ちながら、私たち一人一人の人間は、「大自然変化の流れ行く道筋である惟神の道(かんながらのみち)」の中で生かされながら生きています。
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なぜ神文の語る生物発生の順序が現代生物学と全く同じでありうるのか?
驚きなのは、この神文の語る生物発生の順序が、現代生物学とほぼ一致しているという点ではないでしょうか。
この神文が天児屋根命(あめのこやねのみこと)という存在のメッセージだとすると、
自然科学も何もない、今から2300年前もの昔に、「宇宙創成」のこんな情報をいかにして知り得たか、ということではないでしょうか?
この謎を少し考えてみます。
人類は長い間、理性と意識の三次元の世界に生きてきました。
ことに、近代及び現代では、合理的科学的思考が支配している唯物論的な三次元の世界に生きています。
しかし、実際の人間は、三つのレベルの意識の世界がある、というのが、最近の科学的心理学の発見です。
一つは、先ほども申しあげた五感・理性・意識状態の、すでに我々にはおなじみの三次元の世界です。
二つめは反覚半眠の、意識がややもうろうとした変性意識状態、朝起きた時や寝る前の状態の意識です。
三つ目は五次元の無意識状態の意識があるという発見です。
ことに、この五次元の無意識状態の世界では、三次元の時間と空間というものがなくなり、宇宙全体が自分という一点に凝縮されてしまっている、というのです。
そうであれば、この五次元に入れた人は、そこにある宇宙の全ての過去や未来の情報も知ることが出来るということになるのです。
ロンドン大学の物理学教授のデヴィッド・ボームは、量子力学の最近の知見として「一つの素粒子の中には宇宙全体の情報が巻き込まれている」と言っています。
ところが、この現代物理学の量子力学的発見が、今から約2500年も前に、すでに仏陀が知っていたということを記(しる)す「華厳経」という経典があります。
それは「一つの個という私の中に他の全てのものがある」という仏陀が瞑想の中でつかみ取った五次元の姿です。
五次元に入る仏陀
そして空海も同じ体験を残しています。
「重々帝網(じゅうじゅうたいもう)なるを即身(そくしん)と名づく」と。
この我が身一つの中に、全宇宙とインターネットのようにつながって、あらゆる情報を得ている自分がいる、これがほんとうの自分である、という認識、これが五次元のわが実相だ、といっているのです。
空海
だから、[驚くべき宇宙創成の物語である神文(かみふみ)」というものをメッセージしてきた天児屋根命(アメノコヤネのみこと)とは、仏陀や弘法大師と同じように、その五次元の世界に入って宇宙創成の情報を知り得た存在の神人であったということだと思います。