<
みそぎ(禊)って何?
引き続き今回も示(しめ)す偏について話を続けます。
今回は、禊(みそぎ)という文字に絞ってこれを出来る限り解き明かしたく思っています。
示すへんと、「刀を刻みつける人」との合成から、ここでもやはり「天」と「地」を表すということから、神事用語だということが明らかに理解できます。
一般には、「禊についての解説」はおおよそ次のように記されることが常です。
国学院大学デジタル・ミュージアムの文献からのものですが、まず、「みそぎ(禊)」の「み」の語源を「身」としています。
「そぎ」の部分の語源はなお不明だが、「そそ(すす)ぐ(く)」など水に関わる動詞である可能性が高い、とその学者は書いています。
一方、この度、「令和」の元号で、にわかに注目された万葉集の中から「みそぎ」を見ると、
①「天の川原に 出で立ちて 潔身而麻之乎(みそぎてましを)」(3-420)とか、
②「明日香の川に 潔身為尓去(みそぎしにゆく)」(4-626)
③「三津の浜辺に 潔身四二由久(みそぎしにゆく)」(4-626異伝)
④「しのふ草 祓(はら)へてましを 行く水に 潔而益乎(みそぎてましを)」(6-948)
⑤「清き川原に 身秡為(みそぎして)」(11-2403)
の五例があり、いずれも水を利用して、罪や汚れを洗い清める意に用いられ、これを「みそぎ」の原義と考えてよいだろう、などと解説しています。
一応、もっともらしい結論ではありますが、根拠薄弱で何か物足りないですね。
また、「み」は「身」で良いとして、「そそぐ」を単に「水でそそぐ」意味だとすると、少しおかしくないですか?
だって、清め無くすべきは、水でそそげ清まる汗や垢(あか)ではなく、罪と穢れですよ。
水ですすぎ洗えば、罪と穢れはなくなりますか?
無くならないと思います。
スポンサーリンク
「みそぎ」は水でできるか?
それから、「みそぎ」の「そぎ」を「削ぐ、削ぎ落す」と解釈するのが大方の学者の通説になっていますが、どうやって「罪けがれ」を削ぎ落すのでしょう。
そこがまず明らかにされていません。
それが水だとすると、やはり、言葉上からも理屈からも、原理的説明がなっていませんので、説得力がありません。
毎日風呂や温泉に入っていても、罪穢れはなくならないと思います。
リラックスなどの心理的効果はあるとは思いますが、塩水の海水や冷たい水に入っても同じです。
では、この「みそぎ」という言葉を使っていた古代天族(こだいあまぞく)は、「みそぎ」をどう捉えていたでしょうか?
「神文(かみぶみ)」にあった「みそぎ」の元の言葉
彼らが伝えた「神文(かみぶみ)の第四章第二節」のなかに、「みそぎ」を次のように伝えています。
「ウツジュケグマカ、プルクチミソユキ、パラぺトノィヲ」という文言に「禊」のことが語られています。
それも、「みそぎ」を「ミソユキ」と言っています。
ミソユキを一音一義の天族が使っていた弥生語で解読すると、次のようになります。
神文が収録されている本
それには全体の プルクチミソユキ 全体を解読しないとよく分からないと思いますので
これをまず解読します。
プ ル ク チ ミ ソ ユ キ
(奮い起こして) (不思議な力を) (身を無にして) (新たに蘇る)
その禊を意味する「ミソユキ」の前に「プルクチ」という弥生語があります。
プルは奮い起こすという意味です。
クチは不思議な力をという意味です。
つまりプルクチで「不思議な力を奮い起こす」と言う前提の行為がミソギにはあるということです
とにかく「ミソユキ」がミソギが元の言葉で、「身を無にして新たに蘇る」という意味です。
ミソギの「ソ」とは、弥生語サ行の「何もない、何も無くする」の意味です。
スポンサーリンク
ミソギと祓いの極意を公開
肝心かなめの「身についた罪穢れを無にする」「プルクチ(不思議な力を奮い起こす行為)」とは、左右左の無限なるもの(∞)の「左から罪穢れを引き受けて、これを右へと根の国・底の国へお祓いしそのあと再び左から清めを天から頂く」ほんとうの修祓(しゅばつ、お祓いの神事)のことです。
ただし、そこには気という素粒子の強いエネルギーが働
修祓(しゅばつ)
いていることを忘れてはいけません。
気のエネルギーは人の意識によって動きます。
ですから、以上のことをほんとに分かって自覚して行わないと、気のエネルギーが入らない分、その効果はなくなります。
一般に神社などで行われているお祓いの修祓(しゅばつ)も余りにも形式的に過ぎる、と思いますが、どうでしょうか?
結局、以上のことから分かることは、
1、水によって身についた罪穢れがなくなるわけではないということ
2、祓いとミソギとは不可分につながっているということです
今回はこの位で、又次のブログでお会いします。