古代日本を記した「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」
時は紀元前三世紀、ちょうど弥生時代が始まった頃です。
この頃から、魏志倭人伝(ぎしわじんでん、三世紀末に書かれた日本についての中国の書)が「帯方(今の韓国ソウルあたり)の東南、大海の中にあり」と伝えている倭人(わじん)が九州西岸の五島列島を中心に、交易のための海洋物流商事組織を形成し活躍していました。
その倭人天族の中に、大自然のなかの五次元世界の宇宙霊との交霊秘儀技術を作り上げ、そのメッセージを口承(こうしょう)(口から口へと伝えること)によって受け継いでいった中津(なかつ)と弓前(ゆま)という兄弟の天才的な宗教家がいました。
彼らは、「大君(後の天皇)の質(ただ)しに答えるをもって家の業(わざ)」(委細心得)としていました。
そしてその宇宙霊との交信の仲介をしたのが天児(あめのこ)屋根(やね)として知られる神人で、そのシャーマンとして巫女(みこ)であったのが奈良の春日大社の第四神殿に祀られている姫神なのです。
以後、中津・弓前の後継者たちは天児屋根を一族の御祖(みおや)と仰ぎ、一族が代々伝えた天族の宗教とでもいうべき口承を代々受け継いでいったのです。
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天の児屋根からの言い伝えの「神文」は聖徳太子時代に文字化された
その口伝えを聖徳太子在世時代の七世紀の始めに、当時、香取神宮の神職であった弓前値名(ゆまあてな)というこの一族の子孫が、都の奈良に上り「弓前文書」として始めて文字化していきました。
恐らく、聖徳太子の新しい日本建国のための歴史書づくりに加わるために、都の奈良に上っていた時のことだと思います。
七世紀と言えば、渡来人たちのおかげで万葉仮名という漢字の当て字による日本語の書き言葉が出来上がって、後の日本語の基礎が、少しづつ出来あがっていった頃です。
聖徳太子
弓前値名(ゆまあてな)は、一族に代々伝えられたその口承を、当時出来つつあった万葉仮名を真似た、しかしそれとも少し違う、値名が独自に創案した特殊な漢字をあてて文字化していったのです。
「弓前文書」のうち、宇宙の始まりから生物がいかにして始まったか、またその宇宙やわが太陽や地球や生物界に働いている法則と更にはこの法則の則った生き方とは何か、についての本文に当たる四章からなる情報を五次元の集合無意識界から見て知っていたアメノコヤネのメッセージを後世「神文」といって口伝えで弓前(ゆま)一族が代々伝えてきたのです。
これを解説する文書を「委細心得(いさいこころえ)」と言ったが、この両方を合わせてここでは「弓前文書」と言っています。
その「委細心得」によると、中津・弓前は、「ふだんは、木の実を採り、木肌(きはだ)をすき、田畑を耕し、水にもぐって漁(りょう)をする」ことを生業(なりわい)としていましたが、一方では、天族社会にとっての最高の宇宙神(タカミムツヒ→タジカラ→ピカ・プツ)を祀り、大君の問いに答えることを家業(なりわい、仕事)とする祭祀一族でもあったのです。
この人たちが後の宮廷の祭祀職の中心にあった中臣氏の遠い先祖たちです。
「委細心得」から引用します。
「もと中津(なかつ)・弓前(ゆま)の輩(やから)は、山人(やまと)の島々にあり。木の実を採り、木肌をすき、畑を耕し、水にもぐりて漁(りょう)をなし、大霊(おおひ)の垂力(たぢから)を祀る。」
「大霊(おおひ)の垂力(たぢから)を祀(まつ)る」とは、要するに、タカミムツ大霊(おおひ)の垂力(たぢから)を、天の力と地の力と二つに分け、ピカとプツの神々とそれぞれを呼び、これを祀ったということです。
後の鹿島・香取の神のことです。
繰り返しますが、中津・弓前の族(やから)が、この神々を祀っっていました。
中津・弓前の族(やから)の重要な仕事とは、「大霊(おおひ)の垂力(た’ぢから)を祀る」重要な役職と、「大君の質(ただ)しに答う‘るを以て、家の業(わざ)となす」ことでした。
この本来の、九州時代の中津・弓前一族の役割のうち、第一の「大霊の垂力を祀る」は、後に鹿島・香取両神宮となり祭祀することによって実現します。
今でも、鹿島・香取の神職は中津・弓前(中臣・大中臣)出身の社家が残って祭祀を受け継いでいます(平成20年現在)。
中津一族の長が藤原氏となり、その他はすべて中臣(なかとみ)氏となった
第二の「大君の質しに答えるをもって家の業とする」は、「鹿島の中津すなわち中臣氏から藤原氏となって表に立って政治家となって国政に参加することによって古来からの中津・弓前の役割を果たしています。
このように元々、大王側近の要職の地位にあったといってよいでしょう。
藤原氏の先祖は鹿島にやってきた中津一族であり、この一族は、九州時代から大王側近の祭祀氏族でした。
鹿島にやって来てからも、その中の中津一族から、再び値名と一緒に飛鳥の時代あたりから中央の天皇側近としてお仕えするようになったというのが中臣氏台頭(たいとう)の真相です。
ところがこれを知らない多くの学者は、中臣氏は、物部氏や蘇我氏や大友氏などを押さえてにわかに台頭した「成り上がり」のように捉えています。
中央で勢力を得た中臣氏が、あとからやって来て物部氏の祀る「鹿島・香取」を乗っ取ったなどという妄説は、こうして世に出た弓前(ゆま)文書の存在によっって消えていくことでしょう。
ただし、中臣氏や藤原家そのものが自らの出自を極力口をつぐんだのは事実です。
何故なら、自分たちの出自を明らかにするということは、弓前文書の言う「秘聞」を明らかにすることであり、せっかく作り上げた「記紀(古事記・日本書記)の新しい国家建設のための理念書」を損なうことになりかねなかったからです。