ニギハヤヒの弥生語による解読
弥生語から、「ニギハヤヒ」を解読します。
まず、ニギは本来はニキ、これは、ニニギ(本来はニニキ)のもじりです。
皇孫、ニニギの尊にあやかるためだと思われます。
「先代旧事本義」(せんだいくじほんぎ、620年作)という書は、もともと、それより後世の日本書紀(720年)や古語拾遺(こごしゅうい、807年)からの引用があることがバレている以上、当然、こういう憶測は出てきます。
ではその一音一義の弥生語の意味はいかに。
ニ キ
(niu) (ki)
(秩序体) (際立った)→きわめて優れた存在という意味になります。
これに、甕速日(ミカハヤヒ)、熯速日(ヒハヤヒ)の速日(ハヤヒ)の修飾的接尾語を加えた造語だと思います。
ハヤヒとは、パヤピ、ですから
pa ya piu
(力あふれる) (意志)
よって、ニギハヤヒ、の意味は「きわめて優れた力あふれる意志をお持ちのお方」という意味になります。
言うことない完全なお方、という意味です。
ニニギの尊もほぼ同じ意味と言ってよいでしょう。
以上の解釈は、「当たらずといえども遠からず」と自負するものですが、みなさんはどう思われますか。
旧事本紀が日本書記や古語拾遺などの説話からヒントを得て創作されたことがわかっていると、饒速日降臨説話も自ずから馬脚を現してしまっています。
スポンサーリンク
十種神宝とは何か
その傍証と言えるものが、「十種神宝」と言われるものや「一二三の祝詞」といわれるものの不完全な創作です。
この話をします。
十種神宝(とくさのかんだから)とは、瀛津鏡(オキツ鏡)、辺津鏡(へつ鏡)、八握劔(やつかの剣)、生玉(いくたま)、死反玉(まかるかえしのたま)、足玉(たるたま)、道反玉(ちかえしのたま)、蛇比礼(おろちのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物比礼(くさぐさのもののひれ)のことをいいます。
十種神宝(とくさのかんだから)
この内容は何かと言いますと、古代中国や朝鮮でも、王権のシンボルであった「三種の神器」のバリエイションでしかありません。
「三種の神器」は、古代中国の道教の古典にその発祥の源があると思います。
その一つの根拠は、我が国の古代神道から、数字は、偶数を尊びます。
紙垂(しで)のつけ方一つを見ても、二枚→四→八→十六→三十二という偶数を使います。
ですから、大相撲の横綱の土俵入りの〆縄につけている五枚の紙垂は本当は間違いです。
相撲の起源としての神事を大切にするのであれば、横綱の紙垂は四枚にすべきです。
神格を得た者が横綱だからです。
あれでは横綱は神格は得られないし、得たことにはならないと思います。
それから、拍手は、一般に二拍手、出雲大社では四拍手、伊勢の神宮では八拍手です。
偶数を使う理由。
それは、陽である神霊のエネルギ―を受けるには、陰数の偶数がよいからです。
奇数は陽数で、発信、発展の数だから世間で尊ぶのは分かりますが、神事にはよくないからです。
あと十種神宝(とくさのかんだから)の中の蛇のヒレ、蜂のヒレという呪物は大国主の根国訪問譚(ねのくにほうもんたん)からの引用といってよいでしょう。
しかも、なんといっても、この十種神宝は、古来、どこにも存在してはいなかった、ということが致命的です。
さらに、その効能の胡散臭(うさんくさ)さについては、どなたかが言っているように、女性週刊誌などの雑誌の広告によくある、波動うんぬんをうたうパワーストーンに匹敵するレベルだと思いますが、いかがでしょうか。
効能があったとしても、それは、医科学の世界でいう「プラシーボ効果」ではないでしょうか。
プラシーボ効果とは、偽薬(ぎやく)効果とも言いますが、いっさい薬効の成分が入っていないのに病気が快方に向かったり実際に治ってしまう「思い込みの持つ精神波動の力」ことを言います。
「思い込みの念力」は確かに、量子力学次元のレベルで存在すると思います。
これが今はやりの、大ざっぱな言い方ですが、「思考は現実化する」自己啓発系の根拠になっているものです。
この「プラシーボ効果」の現象は、現在の科学では解明できていませんが、事実として認められています。
ですから、一概に、十種神宝の効能をまったく否定するつもりはありませんが、それ以上の神秘的な何かとは思えないレベルだと思います。
次回は、物部神道に伝わった「一二三の祝詞」の不完全さについて考えます。
コメント
はじめまして。
御ブログを楽しみに拝見させていただいております者です。
天津祝詞の太祝詞についての記事は、前回も一二三祝詞の不完全性云々で途切れてしまいますが、何か邪魔でもはいるのでせうか? 心配になります。
陰謀とまでは言いませんが、公開させまいとする勢力からの危険でもあるのなら、ご無理なさらないようにご自愛くださいませ。
また私見では、大祓祝詞の前半は神の子が地上に降りる際の混乱と、しかし最後には受け入れる様子の描写かとも思いますが、
だとすると、天津祝詞の太祝詞とは「私は神を受け入れます」「神を信じ従います」といった類の言葉かと思っておりましたので、払い系の言葉とは意外でしたし勉強になりました。
(おそらく神文の一説なのでしょうね)
ありがとうございました。
これ以後も楽しみに拝見いたします。
益々のご健勝とご活躍をお祈りもうしあげます。
井戸さんへ
つたないブログを読んでいただきありがとうございます。
ご指摘の通り、申し上げにくい事情があります。
でも真剣に探求されておられる方に公開ではなくなんとかお知らせすることも考えています。
頑張ります。今後ともよろしくお願いいたします。萩原。