これまでの古事記冒頭の十七柱の神の解釈の間違い
それでは、これから古事記冒頭の十七柱(はしら)の神を一つ一つ弥生語で解き明かしていきましょう。
私が伝授されたつたない弥生語の知識で、どれだけは解読できるか分かりませんが 、できるだけ分かりやすくお伝えするつもりです。
まずは、古事記冒頭の十七柱の神々を改めて読んでいただきます。
肝心なところなので、ここは我慢して読んでください。
「天地(あめつち)、 始めて 発(ひら)け し 時、 高天原 (たかまのはら)に、 成り し 神 の 名 は、 天 之 御中 主神(あめのみなかぬしのかみ)、 次に 高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、 次に 神産巣日神(かみむすびのかみ)。
この 三 柱(みはしら) の 神 は、 みな、 独 神 (ひとりがみ)と 成り まし て、 身 を 隠し た ま ひき。
次に、 国 稚(くにわか)く、 浮け る 脂(あぶら) の 如く し て、 海月 (くらげなす)なす 漂(ただよ)え る 時、 葦牙(あ
古事記冒頭の神々
しかび) の 如く、 萌(も)え 騰(あが)る 物 により て 成り し 神 の 名 は、 宇 摩 志 阿 斯 訶 備 比 古 遅 神(うましあしかびのかみ)、 次に 天 之 常 立 神(あめのとこだちのかみ)。
この 二 柱 の 神 も、 みな、 独 神 と 成り まし て、 身 を 隠し た ま ひき。
上(かみ) の 件(くだり) の、 五 柱 (いつはしら)の 神 は、 別天(ことあま) つ 神。
次に、 成り し 神 の 名 は、 国 之 常 立 神(くにのとこたちのかみ)、 次に、 豊 雲 野 神(とよくものかみ)、 この 二 柱(ふたはしら) の 神 も、 独 神 となり まし て、 身 を 隠し た ま ひき。
次に、 なり し 神 の 名 は、 宇 比 地 邇 神(ういじにのかみ)、 次に、 妹 須 比 智 邇 神(いもすいじにのかみ)。
次に、 角 杙 神(つのぐいのかみ)、 次に、 妹 活 杙 神(いもいくぐいのかみ)。
次に、 意 富 斗 能 地神(おおとのちのかみ)、 次に、 妹 大斗 乃 弁 神(いもおおとのべのかみ)、 次に、 於 母 陀 流 神(おもだるのかみ)、 次に、 妹 阿 夜 訶志 古 泥 神(いもあやかしこねのかみ)。
次に、 伊 邪 那 岐神いざなきのかみ、 次に、 妹 伊 邪 那 美神(いもいざなみのかみ)。
上 の 件 の、 国 之 常 立 神(くにとこたちのかみ) より 下(しも)、 伊 邪 那 美神(いざなみのかみ) より 前 を、 并 (あわ)せ て、 神代七代 (かみよななよ)と 称(い) ふ」
それでは、順番に見ていきます。
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天 之 御中 主が江戸後期に初めて祀られた理由
まず初めに、古事記には、アメノミナカヌシという神様が登場します。
そしてほとんどの学者の方の注釈は、アメノミナカヌシとは、天の中央にあって天地を司る天帝(てんてい)のような神の意味にとっています。
確かに漢字の類推から、そんな風に思いますが、その原典である神文(かみふみ)ではアマノマナカヌチという音からなっています。
ア マ ノ マ ナ カ ヌ チ
(大宇宙の真の姿が)(延びゆく) (真の秩序は) (驚きの混沌のエネルギーの状態)
弥生語の一音一義(いちおんいちぎ、一つの音に一つの意味がある)では以上のように解読できるのです。
第一に、古事記の神の漢字の表記は、単なる当て字がよくある、と言うことを知っておくべきです。
例えば「スサノウ」という神を「素戔嗚」などと表記するなどがそのいい例です。
このアマノマナカヌチの意味は、本当は大宇宙の秩序立ては宇宙空間自体が驚くべき一大混沌のエネルギーの塊となった時のこと、を言っているのです。
一般の解釈とはまるで世界が違います。
もっとも、原典の「神文」では、このアマノマナカヌチの前の宇宙の状態の描写があります。
それは聞いたことがない表現の言葉ですが、一応説明しないとアマノマナカヌチがよくわからないので、ここは我慢して少し聞いてください。
その前の状態というのは、イマスパルヌという状態です 。
イマは、「はじまりのまことの姿」はという意味です。
そしてスパルヌという弥生語は、 はじまりの原点の言葉を表す「ス」の中へ流れ込んでくるエネルギーを「パ」といい、それが「」ル」すなわち躍動する、そして「ヌ」で混沌の世界が出来上がる、という意味なのです。
それが、実はあらゆる可能性と多様性を秘めている、原始の大宇宙のエネルギーの姿を表しているのです。
そして「ヌ」という「混沌状態」を受けて「アマノマナカヌチ」が誕生するというわけです。
ですから、一大混沌状態のエネルギーの塊それが「アマノマナカヌチ」の本当の姿であったわけです。
それは、まさに、まだ形になっていない宇宙、まだできていない物質の色んな多様性と可能性を秘め、時間も過去現在未来がひとつになった世界です。
混沌といってももちろん一定の秩序を保ちながらそのエネルギーを伸ばしていった、という意味の宇宙です。
宇宙のビッグ・バン以前の 無限の混沌たるエネルギーの世界のことを指しています。
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天 之 御中 主とは般若心経の「空即」の世界に近い
仏教の般若心経に、「空即是色(くうそくぜしき)」という表現がありますが、その「空即」までの状態が、まあ「アマノマナカヌチ」の姿に近いと言えます。
こう考えると今までの解釈の「天 之 御中 主神」とはまるで世界が違うのです
要するに原初の宇宙生成のある始まりの頃の状態を言っているわけだからこそ、次に 神産巣日神(かみむすびのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすびのかみ) へと進展して行くのです。
だからこそ「天 之 御中 主神」は、やがて 神産巣日神(かみむすびのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ) へと発展的に解消していくということです。
だから、大昔には、この天 之 御中 主の実相を知っていた者がいたからこそ、大事な日本の礎(いしずえ)である宮中祭祀の八神にも「天 之 御中 主神」は祀られてはいないし、古い由緒ある神社を記録した平安時代にできた延喜式にも、「天 之 御中 主神」を祀る神社はありません。
それが正解だからなのです。
いま全国に「天 之 御中 主神」を祀る神社があちこちにありますが、みんな江戸時代、しかもその後期以後に祀られたものです。
平田篤胤
それは、国学者、平田篤胤などが、ほとんどの学者同様、「天 之 御中 主神」を固定的に永遠の「宇宙の主神」のようにあやまって捉えたために、絶対に「祀るべきだ」と唱え始めてからのことです。
「いや、祀らなくていいんだよ」と、これに反論できる理由を分っていた人が、その当時には、もはや一人もいなくなっていたからです。
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